自分が彼といた時間と空間を観客の方にも共有してもらいたい
──澤田さんは「この映画でカミカゼを伝えたいのではない」と言ってますが。
澤田 この映画は特攻や桜花の全体像を説明することはしていません。僕は最初からこの映画は断片であるべきだと思ったんです。林さんが自分に投げかけた断片が一つずつ細胞になっていて、それを観た僕等がその断片をまた一つに繋ぎ合わせて何かを想像できればいいなと。僕がこの映画で本当にやりたかったのは、最初にも言った通り、自分が彼といた時間と空間を観客の方にも共有してもらうこと。それができれば十年後、二十年後も価値があると思うんです。
──長い沈黙の時間をあえてカットしていなかったり、林さんが無言でシューマンの「二人の擲弾兵」を聴く場面を入れていたりと、まるで観客もその場に居合わせているような感覚になりますね。
澤田 僕が今まで観た映画のうちの何本かで、映画と一緒に呼吸している記憶がある。この映画でもそれができればいいですね。つまり林さんと一緒に呼吸する、それが生きるということだなと。映画のスクリーンは2次元だけど、観客の位置を入れれば3次元になる。撮影中、僕等は林さんとカメラの間にいるわけですが、それと同じ位置に観客も入ってきて欲しいんです。
──自分がその場にいる感覚になると観てる人も映画と一緒に考えるんじゃないかと思います。
澤田 最近の映画は最初から全部説明してくれるじゃない。観客は何も考えず、ただ受け取るだけの存在になってしまっている。
──同じ特攻がテーマでも、大ヒットした『永遠の0』なんかはまさにジェットコースタームービーですよね。
澤田 うーん、あれは出来はともかく、ちょっと怖いですよね。戦争に行って一緒に死にましょうという映画だから。
──一見メロドラマですが、ある種のプロパガンダ映画でもあると思います。
澤田 でも戦争映画というのは昔からプロパガンダ映画なんです。手法もある程度決まっていた。日本は戦後すぐに戦争映画を作り始めているんですが、ドイツはずっと後になってからなんです。ドイツが作った戦争映画で僕が一番すごいと思ったのはマルガレーテ・フォン・トロッタ(『ハンナ・アーレント』の監督)の『鉛の時代』ですが、それだけドイツは自分たちが映画で戦争を扱うことに慎重でしたね。
──昨年は多くの反対の声にも関わらず安保法制が成立し、日本も一気に戦争準備が整ったように見えますが、10年前に撮影したこの映像がいま公開されることに非常に大きな意味があると思います。
澤田 僕は長いことフランスに住んでいるので時々日本に帰ってくると変化がよくわかるのですが、10年前頃に、あれ、最近若い人たちにユーモアが無くなったなと感じたんです。それがここ3年ぐらいは、もっと窮屈な感じを受けます。「無言の窮屈さ」というような。この映画は昨年フランスで公開し、ニューヨークやロカルノでも上映していますが、意外にも若い人がたくさん観に来てくれて、上映後にはたくさんの質問を受けました。だから日本でも是非若い人に観て欲しいですね。どうすれば観に来てくれるのか全然わからないのですが(笑)。
(澤田正道監督)