高速ハードマーチを基調とした比類なき音楽性と奇抜なヴィジュアルで絶大な支持を誇った"デスカン"ことデスマーチ艦隊の旧譜4タイトルが秘蔵ボーナストラックを加えて復刻されることになった。さらに阿佐ヶ谷ロフトAでよもやのトークライブ、おまけに初台ザ・ドアーズで想定外のワンマン・ライブを敢行することまでが決定するなど、元メンバー各自が旺盛な活動を展開しているさなかに寝た子を起こすかの如きプロジェクトが進行しているのだ。自爆(解散)から14年、なぜ今またデスカンなのか? マッハマーチジャポニカ〜百怪の行列〜浅草ジンタと続くハード・マーチングの系譜の中でも一際異彩を放つデスカンが果たした功績とは? 現・浅草ジンタ/月カケルタスのダイナマイト和尚にデスカン時代の四方山話、今だから話せる貴重なエピソードを披露してもらった。(interview:椎名宗之)
無知がゆえの突進力がデスカンにはあった
──なぜ今デスマーチ艦隊なのか、まずその辺りから聞かせて下さい。
「きっかけは、初代マネージャーだったケロッピーが去年他界したことなんです。それでメンバーが集まって、彼女のためにもう一度デスマーチ艦隊をやろうかという話になったんですよ。でも結局、ドラムの田中先生が現役を退いていたこともあり、その話は流れちゃったんです」
──それならせめて、旧譜を復刻しようと。
「テイチクから話をもらって、未発表音源も追加して全部出すって言うから凄いなと思ったんですけどね」
──浅草ジンタとしての活動も好調なわけだし、デスマーチ艦隊を回顧することにためらいはなかったんですか。
「以前は浅草ジンタのプロフィールでデスマーチ艦隊のことにあえて触れないこともあったけど、自爆から14年も経てばためらいがなくなったんでしょうね。俺は今も現役だし、本質的な部分は何も変わっていないという自負もあるので。デスマーチ艦隊と浅草ジンタは表現の仕方が変わっただけなんですよ。もう一回りしちゃったので自分にとってはあまりリアルじゃないと言うか、『面白いな、こいつら』みたいな感じでデスマーチ艦隊のことを客観的に見られるようになったんです。デスマーチ艦隊は衝動だけで生まれて、衝動だけで突っ走って、生き急ぐように自爆したバンドだったけど、その強い衝動は今の自分から当時の自分に対してリスペクトできますね」
──和尚を始め、メンバーが美術系の大学出身だったからこそ生まれる奇抜なアイディアや斬新なアプローチがデスマーチ艦隊にはありましたよね。
「単純に言うと、絵を描いて、拍手喝采もブーイングを浴びることもないじゃないですか。そして絵はずっと飾っておけるけど、音楽は一期一会の瞬間的なもの。自己表現の術としては音楽の刹那的な部分に惹かれたんですよ。昔、テイチクのプロデューサーだった徳田さんに悩みを打ち明けたことがあったんです。『音楽的な基礎が何もない自分がこれから音楽をやっていけるのか分かりません。だからジャズを勉強してみようと思うんだけど、どう思いますか?』って。そしたら即、『やめなさい』と。『それをやっちゃったらお前らしくなくなるから』って言われて。確かにその通りで、無知がゆえの突進力がデスマーチ艦隊にはあったんですよね。音楽のことは詳しくないけど、創造することに関しては絵も同じだから音楽を創り出す力自体はあったんです。でも基礎がないから、たとえて言えば子どもの絵を大人がトリミングしたみたいな音楽だったんじゃないかな。未だに音楽に対してリスペクトがあったり、毎度自分の出す音に新鮮さを感じるのは、絵とは違ってアカデミックじゃないからなんですよ」
──そもそも和尚がベースに触れたのはいつ頃だったんですか。
「デスマーチ艦隊を始めるちょっと前ですね。趣味でやってたバンドのドラムが脱けて、そいつが持ってたウッド・ベースをたまたま預かってたんですよ。それに触って弾き始めたらハマっちゃって、何の知識もないものだから『よし、俺はこれで世界一になるぞ!』って簡単に思っちゃったんです(笑)。で、俺よりも凄いと思えるベーシストを全て見つけ出しては、そいつを追い抜く努力をしてましたね。毎日7、8時間練習した挙げ句、疲労骨折したこともあったし(笑)。そういう俺みたいな突き抜けたバカのところには同じようなバカが集まるようになってて、それがデスマーチ艦隊になって、ベースを弾き始めて1年も経たないうちに『魂のしわざか…』のインディーズ盤を作っちゃったんです」
──やはり無知がゆえの突進力は半端じゃないですね(笑)。
「しかも、その半年後にはメジャー・デビューも決まって。時代的にも、運が良かったですよ。テイチクのスタッフを始めいろんな人たちに助けてくれて更生させてもらえたし(笑)。だから今回の復刻を機会にその恩返しをしたい気持ちもあったんですよね」
──和尚はもともとサイコビリーやネオロカビリーが好きだったんですよね。
「デスマーチ艦隊の前に、ウッドを採り入れた趣味レベルのバンドをやってた時期が意外と長かったんですよ。デューク&ザ・サミッツをやってたデューク佐久間さんの弟が俺と同級生で、リーバイスにエンジニア・ブーツの出で立ちで、当時高校生だった俺もピュアなビリー・ファンだったわけです。ヨーロッパのほうでロカビリーがリバイバルしていた時代ですね。その数年後に現れたバットモービルっていうオランダのサイコビリー・バンドの誇張されたスラップ音があまりに衝撃的で、その頃やってたバンドでもその誇張したスラップ音を採り入れることにしたんですよ。それで、ロイ・オービソンやエディ・コクランのカバーをやったり、ストレイ・キャッツみたいなオリジナル曲もあったし、学園祭でライブをやるとキャーキャー言われて。デスマーチ艦隊とは違って、当時は二の線だったんですよね(笑)」
如何に今を突き抜けて過去の自分を壊すか
──二の線からどんな過程を経て高速ハードマーチへと行き着いたんですか。
「学生の頃にメンフィスのサン・スタジオへ行ったことがあるんです。50'sのロックンロールやカントリー・ミュージックを好きな人間にとっては聖地じゃないですか。でも、そんな憧れの地で強盗に遭って、暴漢に殴られて鼻を骨折しちゃったんですよ。殴られてお金を取られたことよりも、一人の人間としてバカにされたことが悔しかったんですよね。警察すらもまともに相手にしないし、凄い失望感があって。ずっと憧れを抱いていた国から人種差別を受けたようなものだから。で、ある時、自分がブレイク・スルーしたのを感じたんですよ。プライベートでいろんなことがあって、一度死んだぐらいの気持ちになった時に、空の向こうまで突き抜けたいと思ったんです。ずっとかたくなにアートの世界観の中にいた自分を崩壊させたかったと言うか。それまで内向的な活動だったのに、学園祭でいきなりターザンみたいな格好で走り回るようになったりして(笑)。自我が強くなっていくにつれて自分が日本人であることも当然のように強く意識するようになって、それまで英詞で唄っていたのが急に古くさく思えるようにもなっていたんです。それで自分の思いの丈を世界の中の一個人として日本語で唄うべきだと思うようになって、いいことも悪いこともそのまま唄い切るスタンスを取ることにしたんですよ。それがデスマーチ艦隊の始まりだったんです」
──誰もが知っている唱歌や世界の民謡を高速ハードマーチに乗せて唄うスタイルは斬新で、唯一無二でしたよね。
「ちょうどミクスチャーの時代だったことも大きいと思います。サイコビリーやスカ・パンク、レッチリみたいな音楽もレコード屋で同じ棚にミクスチャーとして並べられてたし、そういうクロスオーバーの時代だった。みんなと同じことをやるのはイヤという時代、クロスオーバーの根もとにいたことも大きかった。それで自分が目を付けたのが、マーチだったんですよ。ポルカやフォルクローレといった民族音楽はマノ・ネグラがパンクと融合していたけど、マーチなら誰も形にできないだろうと思って。で、マーチと軍歌が俺の中でリンクしたんです。ジャパニーズ・マーチと言えば軍歌なわけだから」
──デスマーチ艦隊のリマスタリングに立ち会って、当時の音源を聴き直してみて如何でしたか。
「当時の自分は何も考えずに衝動だけで動いていたなって感じですね。自己愛やこだわりは確かにあったけど、自分たちの良さが何なのかは全然分からなかった。第一、俺はメジャー・デビューしたことすらよく分かってなかったぐらいですから(笑)。デビューして2ヶ月ぐらい経った頃にTBSの赤坂ライブっていうのがあって、デスマーチ艦隊とウィラードで一緒にやったんですよ。いつも通りステージでは暴れ放題で、MCで俺が『お前らバカか!?』を連発して、ヤバ丸は横チンで(笑)、ホントにメチャクチャだったんだけど、その時のライブの楽屋で『俺たちってメジャー・デビューしてたんですよね?』って俺が言って、徳田さんたちを驚愕させたことがありました(笑)。だって、当時の俺にはこんなアーティストになりたいっていう目標もなかったし、如何に今を突き抜けて過去の自分を壊すかしか考えてなかったんですから。メジャーという大舞台に立って、いろんな人たちがサポートしてくれてるのを見ると、『俺は一体何をやってるんだろう?』と思うことが多かったですね。インディーズ時代にその日暮らしでバンドをやってた頃は全然違和感がなかったんですけど」
──でも、メジャーであるがゆえに「征露丸」が「デスマーチファンファーレ壱」になったり、「文明DO」が「父と娘の3時のおやつの行進曲」になったり、本来の自由奔放な表現が大人の事情で抑制されたじゃないですか。そういうところに不自由さを覚えませんでしたか。
「別にそんなに悔しくもなかったんですよ。それを逆手に取って面白がってた部分もあるし、ライブではずっと本来のバージョンでやってましたからね。ホントはそういうライブ・バージョンも今回の復刻にボーナストラックで入れる案もあったんですけど、16年経ってもやっぱり大人の事情で入れようがなかったんです(笑)」