増子直純(vo)、上原子友康(g)、清水泰而(b)、坂詰克彦(ds)という現メンバーが揃って今年でめでたく20周年を迎える怒髪天。R&Eという大胆にも程があるハイブリッド感覚に富んだ音楽性、終わりなき日常生活の中で誰しもが体感する喜怒哀楽を簡潔な言葉で書き綴った歌詞、何だかよく判らないが闇雲に熱いモノを否応なく感じて激しく泣き笑いしてしまうライヴ・パフォーマンス、まるで『西遊記』の登場人物のようにしっかりと確立されたメンバー4人の揺るぎない個性。噛み締めれば噛み締めるほど滋味に富んだ味わい深さを醸し出す彼らの魅力を、とても一言で言い切れるものではない。言い切れないからこそ、その際限のない彼らの魅力の核心に迫りたくて僕はこれまでずと彼らの背中を追い続けてきた。そしてその答えは未だによく判らない。判らないからこそ、きっと僕はこの先の20年も怒髪天の軽やかな疾走を追い続けるのだろう。
今年の2月3日、SHIBUYA-AXで行なわれた『LIFE BOWL』のツアー・ファイナルを収録した映像作品『for beautiful 不惑 in LIFE』について、また今日に至る20年の軌跡についてメンバー全員に語ってもらった本稿は、僕が怒髪天に贈るラヴ・レターみたいなものである。公のメディアを使ってラヴ・レターをしたためるなど公私混同も甚だしいが、怒髪天を語ることは自分自身のすべてをさらけ出すことと同義なのである。彼らのことを語る時、努めて冷静でいることなど到底不可能なのだ。きっと俺達界隈のあなたもそうだろう。あなたと同じように、僕も怒髪天のことを愛している。ありったけの愛と、ありったけのエールを、20周年という門出を祝してこのインタビュー原稿に凝縮させたつもりだ。このささやかなラヴ・レターを読んで、あなたが今以上に怒髪天のことを愛してくれたらとても嬉しい。(interview:椎名宗之)
満を持して発表された初のライヴ映像作品
──先のツアー・ファイナルの模様を収めた『for beautiful 不惑 in LIFE』が発表となったわけですが、こうしたライヴ映像作品はファンの間で長らく待ち望まれていたアイテムですよね。
増子:そうだね。今まではメディアがVHSとベータしかなかったからね(笑)。
──いつの時代ですか(笑)。『LIFE BOWL』を発表後のツアーにメンバー自身も大きな手応えを感じたゆえのアイテムと言えませんか。
増子:それも確かにあるけど、ツアー・ファイナルをAXでやることが決まった時からDVDを出そうと思っていたんだよ。せっかくの広い会場だし、照明もキレイじゃない? きっとお客さんもいっぱい来てくれるだろうし。ってまァ、取らぬ狸の皮算用みたいなところはあったんだけどさ(笑)。ライヴ作品を出したいとはずっと考えていたし、今回は満を持してという感じだね。諸々の条件が揃って、現時点でベストの形で出せたんじゃないかな。
──2年前に同じSHIBUYA-AXで行なわれた『ニッポニア・ニッポニア・ニッポン・イン・ニッポン・ツアー』のファイナルも大雪だったじゃないですか。まさか同じ会場で2度も大雪を降らすとは思いませんでしたよね。
増子:まァ、雪を降らせるのが一番お金が掛かったからね(笑)。今度は敢えて絶対に雪の降らない所でやろうと思ってるけど、何が起こるか判らないよ。だって、年末に長崎のハウステンボスでカウントダウン・ライヴをやった時も吹雪を呼んだんだからね(笑)。地元の人も「大晦日にこんなに雪が降るなんて有り得ない」って言ってたから。考えてみれば、あの時から前フリはあったんだよなァ...。
──逆に、この間の『トーキョーブラッサム スペシャル"男盛ノ花盛 in 野音"』の時は雨が止んだじゃないですか。
増子:もうイイだろってことだろうね。ゲストで出てもらったピーズは野音で2回雨を降らしてるし、あれで天気が崩れてなかったら逆に申し訳ないでしょ? マイナスとマイナスでプラスになるか? なんて言ってたんだけど、結果的にはドマイナスだったよね(笑)。SIONさんなんて今まで野音は100%晴れだったのに、その伝説まで俺達が打ち破っちゃったからさ(笑)。
──皆さん、『for beautiful 不惑 in LIFE』の映像はご覧になりましたか。
増子:もちろん見たよ。坂さんはどう? 自分の姿を映像で見て。
坂詰:うーん...。まァ、あの時はああだったなァ...みたいな。シビアな感じですね。あの時の精一杯な感じも出てるし、DVDを見て"これはもっと行けるな"っていうのに気付いたっちゅうか。
──今、坂さんの発言に思い切り苦笑していた友康さんはどうでしたか?
上原子:照明がキレイだなって思ったね。この日のライヴはいつもと同じテンションだけど、そのツアー自体がまず今までになく長かったじゃない? だからいつもに比べるとファイナルっぽさが凄くあった気がするね。しかも会場は大きくて、お客さんもいっぱい来てくれて。ただ、個人的には自分の演奏ミスばかりに目が行くね。"ああ、なんでここで間違えるかなァ..."みたいなさ。
増子:そういうもんだよね。レコーディングだってそうだから。
──シミさんはとにかくちょこまか動きっぱなしですよね。
増子:シミはチョコマカオだからね(笑)。
清水:マカオから来たチョコマカオです(笑)。
増子:坂さんはチョコボールマカ彦だもんな(笑)。一番最後にやった「美学」のエンディング、あの一番イイところでの坂さんのシンバル・ワークには、俺もさすがに狙撃隊を呼んで麻酔銃を撃ち込みたいくらいだったからね(笑)。俺は感無量だったからその時は気付かなかったんだけど、後でDVDを見たらひっくり返ったもん。マレットで一生懸命余韻を残そうとしてるんだけどさ、完全に要らないでしょ、あれ。失敗ではないけど、蛇足だね(笑)。まァ、そこがイイんだけどさ。
──「好き嫌イズム」のイントロなんて、シミさんはベースを弾くのを放棄してオーディエンスを煽るだけ煽ってますよね。
増子:あれは撮影が入ってるからまだ大人しいほうだよ。最近はどこまでベースを持たないで行けるかに懸けてるからね。
清水:ステージ横の柵に登ったりするんだよ。歌の入るタイミングに戻れないと最悪なんだけどさ(笑)。
──怒髪天は音源が素晴らしいのはもちろんなんですが、やはりライヴにこそバンドの真髄があると思うので、こうしたライヴ映像作品は歓迎すべきアイテムですよね。
増子:そうだね。まだ俺達のライヴに来たことのない人達に向けた入門編的アイテムにもなってるし、この日のライヴに来てくれた人達にはもちろん充分に楽しんでもらえると思う。このDVDは、自分達のライヴの中でも一番スタンダードな形で残ってるよね。アッパー系とグッとくる系のどちらにも偏っていないしさ。
上原子:うん、選曲のバランスは凄くイイと思うよ。
清水:俺が中学の時にモッズのライヴ・ビデオとかを見て"ああ、イイなァ..."って思ったのと同じように、今度はみんながこのDVDを見て楽しんでくれたら嬉しいよね。でも、中学生にはちょっとハードルが高いかな?(笑)
増子:オジサン達が随分と元気に暴れてるなァ...って感じだろうしな(笑)。
──見所は満載ですよね。増子さんが客席に乱入して、PAの横山さんに挨拶する場面とか。
増子:挨拶は大事でしょ。会ったらまず挨拶が基本だから(笑)。
今まで発表してきた曲はどれも平等にかわいい
──このDVDを見て改めて思うのは、セットリストの構成力の見事さですよね。選曲も緩急の付いた流れも完璧だと思うんですよ。
増子:やっぱり長いツアーをやってきた間に整合性も取れるし、自ずとまとまりが良くなるからね。ファイナルは尺もあるし、せっかく撮影が入るなら普段なかなかやれない曲をやってみたいとも思ったんだよ。リハでイイ流れかな? と思ってやってみても実際はそうじゃなかったりするし、やる側だけじゃなく見る側の人達の視点も凄く大事なんだよね。とにかく構成は難しいよ。前半は微妙でも最後の3曲でイイ流れに持っていったりすることもあるし、最初は勢いが良かったのに最後は何となくソツなく終わったりすることもあるからね。でも、今回のDVDの流れは理想に近いね。最後の坂さんのマレットがすべてを台無しにしてる気がしないでもないけど(笑)。
──あれだけ完成度の高いステージを見ると、活動再開後に今のO-WESTで行なった初のワンマン『嗚呼!花の東京十年生』とは隔世の感がありますね。
増子:当時はあれが精一杯だったからね。今は緩急を付けることによって何回も山場を作るのが面白い。活動再開直後は一個の山だけをガーッと押していく感じだったけど、自分達に合うライヴの在り方がだんだんと掴めるようになってきた。ワンマンでも1時間しかやらないバンドもいれば、3、4時間やるバンドもいるよね。俺達はワンマンなら20曲ちょっとをやる長さがイイし、現時点ではこのスタイルが一番しっくりくるんだよ。まァ、相変わらず「MCが長い」って言われるけど、これも俺個人としては一番しっくりくるんだよ(笑)。
──ちなみに、ライヴの選曲はいつもメンバー4人で民主的に決めているんですか。
増子:民主的ではあるけど、約1名を除いた3人で決めることが多いかな。
清水:4人では決めてるんだけど、坂さんじゃなくマネージャーが頭数に入ってるね(笑)。
増子:ミスター・マレットには事後報告だけだね。坂さんは社長のハンコだからさ。過去にやったライヴのデータをマネージャーが持ってるから、それと照らし合わせながらみんなで選曲を決めてる感じだね。考えた流れを一度リハでやってみて、クドければ方向修正してみる。最初から全部決めちゃうわけじゃないんだよ。
──特にテイチクに活動の拠点を移して以降、凄まじいペースで新作を発表し続けているじゃないですか。しかもそのどれもが尋常ではなくクオリティが高いから、ライヴの選曲を組み立てることが年々難しい作業になっている気がするんですけど。
増子:そうだね。ライヴで盛り上がる曲をやるべきか、自分達がやりたい曲をやるべきかはワンマンだけではなくいつも悩むよ。短い時間のライヴなら勢いだけで行くほうが気持ちイイんだけど、今まで発表してきた曲はどれも平等にかわいいから、曲の組み立てにはいつも迷うし時間が掛かるんだよ。友康は割とそういうタイプだよね。なるべくならどの時代の曲も万遍なくやりたいと思うほうなんだよ。
上原子:新作のツアーならその収録曲を優先的にやりたいけど、過去に発表したちょっと珍しい曲もちゃんとやりたいんだよね。発表した曲は全部同じに並べたいし、新曲は少しだけ頭が出てる感じにしたい。でもどうしてもライヴで盛り上がる曲というのはあるし、それはやっぱりやったほうがイイし。凄く難しい選択だけど、余りイイ流ればかりに気を留めると今度は自分達が飽きちゃうんだよね。
増子:そうそう。とにかく選曲に関しては、シミと友康は余りやってない曲を入れたいって言うタイプ。それがシミは3回に1回あるとしたら、友康は毎回あるね。俺はテッパン主義のドリフ状態だからね。リハを積んで、テッパンにテッパンを重ねる補習派なんだよ。坂さんは...印象派かな(笑)。ぼんやりとした絵を描くタイプだね(笑)。
──モネ、マネみたいな感じですね。
坂詰:私もね、あなたもね、みたいな。
増子:今の発言はカットだね。もしくは、スクラッチを削ったら出てくるようにするとかさ(笑)。まァ、今回のDVDは誰しもが楽しめるアイテムだと思うよ。友達と酒でも呑みながら見て欲しいね、絶対に面白いと思うから。このDVDは自分でもちゃんと見られるしね。照明と音のバランスとか、友康や坂さんの動きはこうだったのかとか、シミの頭は大丈夫かとか(笑)、いろんな見方ができるよね。
怒髪天の"肝臓"が入って今年で20年
──今年は現メンバーが揃って20周年、来年はバンド結成25周年ということで、怒髪天にとっては賑々しい節目の年が続きますね。
増子:そうだね。怒髪天の肝臓が入って今年で20年だよ(笑)。
──アルコールには随分と耐性のある肝機能ですよね(笑)。
増子:ホントだね。でもあれだね、早かったっちゃ早かったけど、むしろここ数年で各人のスキルみたいなものが見えてきたような気がするよ。"ああ、こんなこともできるんだな"っていうようなさ。単なる仲の良いバンドとしてだけではなく、音楽を一緒に生み出す職人としての頼もしさをここ何年かで強く感じるんだよね。
──'88年12月に黒天狗音盤から発表されたファースト・アルバムは、シミさんではなく前任のベーシストが弾いているんですよね。
増子:そう。シミが整形する前の写真が裏ジャケに載ってるね(笑)。
清水:なんで悪くする必要があるんだよ(笑)。
──そもそも、シミさんはどういった経緯で怒髪天に加入したんですか。
増子:金を積まれてね。「毎月5万円ずつ払うから入れてくれ」って(笑)。それはもちろん冗談だけど、前のベースが諸々の事情で辞めることになって、入りたいと言ってくれる奴も他にいたんだよ。で、いろんな候補がいた中で、凄くルックスのイイ奴、凄く巧く弾く奴、凄いバカな奴とがいたわけ。
清水:俺がその"凄くルックスのイイ奴"かな?(笑)
増子:よく判ったね(笑)。その3人の中で一番可能性のある奴にしようと思ったんだよ。
──選ばれたのはもちろん"凄いバカな奴"で、それがシミさんだったわけですね。増子さんはシミさんがやっていたゼラチンのライヴはよく見ていたんですか。
増子:もちろん。シミもよく俺達のライヴを見に来てたしね。
清水:俺はお客さんと言うか、知り合いって言うかさ。
増子:知り合いとは冷てェな、オイ!(笑)
清水:いや、今みたいに一緒にバンドをやってたわけじゃないからさ。それに、俺は増子さん達の2つ下で、怒髪天は先輩みたいなものだったから。「増子さん、どうも」っていう感じだったし。
──シミさんが加入する前の怒髪天のライヴは、どんな感じだったんですか。
清水:凄く大人に見えたね。当時のサウンドは、俺がやってたようなパンク・バンドとは懸け離れたものだったから。そうだよね?
増子:うん。割とブルース寄りだったからね。
上原子:それまでのベースが、どちらかと言えばビート・ロックや8ビートを志向するタイプだったんだよ。それでそういう音楽をやってて、坂さんが入ってからは黒っぽいノリの曲をやりたいと思うようになった。俺はそういうサウンドに合う巧いベースが入ったらイイなと思ってたんだよね。
増子:友康の意見としてはね(笑)。俺は面白い奴を入れたかったんだよ。
清水:思い切り意見が対立してるじゃねェかよ!(笑)
増子:坂さんを入れたのはさ、ドラムで誰かイイのがいないかって探してた時に、坂さんがやってたリドルのライヴに友康を連れていったんだよ。「あれ、どう?」って友康に訊いたら、「いや、ちょっと...見た目が...」なんて言ってさ(笑)。
坂詰:あの頃は痩せてたと思うけどなァ...。
増子:いや、そんなことはない!(笑) どこのオヤジさんが叩いてるのかと思ったからね(笑)。
──ということは、坂さんもシミさんも当初は友康さんのお眼鏡には適わなかったということですね。
上原子:いや、坂さんのことはイイと思ったんじゃないかな。
清水:オイオイ! 限定しやがったな!(笑)
上原子:だって、坂さんは知り合いだったけど、俺は増子ちゃんと違ってシミのことをよく知らなかったから。ゼラチンも見たことがなかったし、そもそも俺は普段からライヴを見に行くようなことがなかったからね。
清水:俺も、友康さんとも坂さんともちゃんと喋ったことがなかったしね。挨拶程度は交わしてたけど。
増子:要するにさ、楽器なんてやってれば巧くなる。シミの前のベースはルックスが良かったから、そういうタイプはもうイイと。そうすると、残るのは天からの授かり物であるバカしかないわけだよ(笑)。バカを入れたほうがきっと楽しいだろうと思ってたけど、ホントに楽しくなった。今も凄く楽しいしね。
不動のメンバー4人が揃うまで
──シミさんは怒髪天に加入してすぐに溶け込めたんですか。
清水:俺は人見知りするほうだから、慣れるまでにはやっぱり時間が掛かったよ。あと、2つしか違わないんだけど、この3人が凄く大人に見えたんだよね。だって、当時はみんなバカみたいにブルースばっかり聴いてたんだよ?
増子:そう、音源に雑音が入ってるようなブルースをね。当時はシブいものに憧れてたから。
清水:坂さんも、汚い革ジャンのポケットからハーモニカを出したかと思ったらプープー吹き出すしさ(笑)。何なんだこのオッサン達は!? と思ったよ(笑)。俺はまだやんちゃなほうだったからボロボロのジーパンとかを穿いてたんだけど、みんなは大人っぽいブルースな格好をしてたんだよね。
──ブルースな格好?
清水:チョッキみたいなのを着てたよね?
増子:チョッキじゃねェよ、ベストだよ(笑)。
上原子:俺は仕事をしてたから、練習には会社帰りでスーツを着て行ってたからね。
増子:あとほら、当時友康はエピフォンのセミアコを持ってたでしょ?
清水:そうそう。ギターもそんな感じだったしさ。
──増子さんはその頃どんな格好をしていたんですか。
増子:俺は髭に柄シャツとかだね。
清水:レゲエっぽい格好だったよね。
増子:当時はちょっとボロい感じの服を着るのが流行ってたんだよ。でも、そのボロいベクトルが明らかに間違ってたんだね(笑)。
清水:坂さんはとにかくずっと同じ革ジャンを着てたね。あと、坂さんはラバーソールを履いてたから、ズシャッ、ズシャッて凄い音を立てながら歩いてくるんだよ(笑)。
──シミさんが加入する更に5年前まで話が遡りますが、怒髪天はそもそも増子さんが高校生の時に結成したバンドなんですよね。
増子:そうだね。友康が入るまでに全員クビにしたんだよ(笑)。ざっと6人くらいはクビにしたかな? 友康が入ってからもドラムが2人替わってるからね。坂さんで3人目だったっけ?
上原子:いや、坂さんでドラムは4人目だよ。
増子:そうか。坂さんは前頭4枚目だね(笑)。
──増子さんと友康さんがタッグを組んでからバンドが急速に回転していった感じですよね?
増子:友康は畜生やチェリーブラッドっていうブッチャーズの前身バンドをやっててよく知ってたけど、タイプが全然違うから、一緒にバンドをやるなんて思ってもみなかったんだよ。友康は当時から凄くギターが巧かったから、俺と一緒にやるような奴じゃないだろうなと思ってた。それに、友康は割とメタル寄りだったからね。でも、ちょうど友康がチェリーブラッドを辞めた頃に、俺も諸々の理由でギターをクビにしてたんだよ。
上原子:そうそう。俺が何もバンドをやってないから、一緒に何かやろうかっていう話になって。「『ツイスト&シャウト』をやろうよ」みたいなことを言った気がする。
増子:割とルーツっぽい音楽って言うか、フーとかのブリティッシュ・ロックみたいな音楽をやろうとしたんだよね。
上原子:それまでは激しい音楽ばかりやっていたから、もうちょっとスタンダードなロックをやりたいと思ったんだよ。キンクスとかビートルズとかね。そういうバンドのコピー・バンドをやろうよって話になって、スタジオに入って遊んでた。
──今の怒髪天のサウンドからすると、ブリティッシュ・ビートという引き出しは凄く意外に感じますね。
増子:でも、ベーシックにはあるものだよ。シンプルなロックンロールも凄く好きだからさ。
──バンドの結成から'88年に最初のLPを作るまで、割と長いタームが開いていますよね。
増子:まァね。当時はカセットテープが主体で、ブッチャーズもイースタンユースも3本も4本もカセットを出してたんだよ。俺達は何も出したことがなかったし、それなら敢えてカセットじゃなくてレコードを出せるまで待とうとしたんだよね。だから、あの最初のLPこそ満を持して出したものだったんだよ。あのLPが凄いのはさ、ライヴハウスで聴くよりも生の音がするところなんだよ。何にもエフェクトを掛けないで録ったからなんだけど、まるで意味がなかったよね(笑)。
──黒天狗音盤というのは、増子さんのプライヴェート・レーベルみたいなものだったんですか。
増子:俺と言うかバンドのレーベルのつもりだった。なんでレーベルを始めたかと言うと、ライヴの企画がしやすくなるから。そのための意義しかなかったよね。
──黒天狗音盤からはもう1枚、河童というバンドがLPを出していましたよね。
増子:黒天狗から出したのは俺達のファーストとその河童だけだよ。他にももっと出したかったけど、そんな時間も金もなかったね。河童は凄くイイバンドだったんだよ。
辛酸を舐めた花の東京1年生〜6年生時代
──ファーストを出して以降、札幌では何年活動を続けていたんでしたっけ?
上原子:3年くらいかな。'91年には東京に来たからね。
増子:'99年に活動を再開させてからはホントにアッと言う間だったんだよ。もの凄く時間の経つのが早かった。それに比べて昔はどんだけダラダラしてたんだっていう話なんだけどさ(笑)。
──ファーストLPがあって、カセットがあって、上京してメジャー・デビュー・アルバムを作って、それ以降はいろんなコンピに参加して、8センチCDがあって、『痛快!ビッグハート維新 '95』があって。そこまでの7年間は本当にマイペースでしたよね。
上原子:終いには3年もバンドを休むことになって(笑)。
増子:活動を再開させてからは一気に加速するんだけどね。上京してからはライヴも全然ウケなくてさ。暖簾に腕押しとはまさにあのことだよ。暖簾に腕押しで反応がないくらいならまだイイけど、完全にイヤがられてるんだもん(笑)。札幌のベッシーで常時300人を動員していたのが、東京に来て西荻ワッツで3人とかさ、そんな状況だったからね。東京はどうなってんだろう!? と思ったよね。
──活動休止前の時期は、苦々しい記憶のほうが強いですか。
増子:そんなこともないよ。のんびりやってたからね。でも、ライヴは真剣にやってたよ。当時の"ヨシッ、やったるぞ!"は完全に対バンに向けられてたから。今の"ヨシッ、やったるぞ!"は、対自分なんだよね。自分自身に対する挑戦って言うかさ。だから何て言うか、懐かしい初々しい気持ちがあったね。今はそういうのがもうないもんな。
──上京して以降、バンドの活動に焦りを感じたりは?
増子:焦ってたことももちろんあったよ。でも、自分のやってる音楽が爆発的にウケるもんじゃないと思ってたからね。いつかは東京でも札幌と同じくらいライヴの動員が増えるだろうとは思ってた。ただ、時期が悪かったよね。ライヴハウス冬の時代と呼ばれていた頃で、どんなバンドでも動員には苦戦してたでしょ?
──ハイ・スタンダードがライヴハウス・シーンを席巻する前ですからね。
増子:そう。で、ちょうど俺達が休んでた頃にイースタンやブッチャーズが頭角を現し始めたんだよ。良かったなと思ったね。俺はその頃、バンドに対してまるっきり興味が持てなかった。羨ましいとも思わなかったからね。
──『痛快!ビッグハート維新 '95』を出した後は、バンドが終焉に向かう予感みたいなものはあったんですか。
増子:なかったね。やりたくなくなったらバンドを辞めようっていつも思ってたから。ただその後、もうイイかな? って思うようになっちゃったんだよね。うまく言えないけど...いろんなことがあったしね。最初に「もう辞めよう」と言い出したのは俺だったんだけど。
上原子:今考えると、煮詰まってたんだろうね。音楽的にも、何をやりたいのか判らない飽和状態だったから。
清水:俺は英断だなと思った。増子直純は男だなと思ったよ。当時はとにかくそうするしかなかったんだよ。その当時でももう何年も自分が引っ張ってきたバンドを終わりにするのは凄く勇気の要ることだし、潔い決断だと思ったね。
増子:いや、単純にもうイヤになっちゃったから辞めようと思っただけだよ(笑)。
──坂さんはどう感じましたか。
坂詰:やっぱりこの......。
清水:何も覚えてないんじゃないの?(笑)
増子:「もう辞めよう」って坂さんに言っても「はい、判りました」。「またバンドやろう」って言っても「はい、判りました」。何でも「はい、判りました」だから(笑)。でも、きっと坂さんは"これでやっとテレヅメ,に専念できる!"って思ったんじゃないかな(笑)。
坂詰:まァ、これでやっとひとつの土台が出来たな、と...。
増子:土台!? 当時はもう30代になってるっていうのに(笑)。
──30代に差し掛かる頃というのは、誰しもが一度は自分の足元を見つめ直しますよね。
増子:そうだね。いろんなことを悩む時期なんだろうなとも思ったしね。
上原子:確か、「今日でラスト・ライヴです」みたいなことは言わなかったよね。
清水:うん。でも、札幌のライヴで「もうこの名前では来ないかもしれない」とは言ったよ。
活動再開を機にすべてを一からやり直そうと思った
──やっぱり、3年間の活動休止は必要悪だったんでしょうね。
増子:うん。車の運転もそうでしょ? ちょっとウトウトしてきたら一旦寝たほうがイイし。それでシャキッと起きて、目的地に向かうと。
──活動休止中は、4人それぞれの生活を送っていましたよね。増子さんはイヴェントの司会や穴あき包丁の実演販売をやったり、友康さんは佐久間学さんのツアーに参加したりスタジオ・ミュージシャンに徹して、シミさんはナートに参加して、坂さんはテレヅメ,名義で弾き語りライヴをやってみたり。
坂詰:テレヅメ,は2回しかライヴをやらなかったんですけどね。
清水:友康さんと俺は1回だけ見に行ったよね。2回目も遅れて行ったんだけど、坂さんはもう帰っちゃっていなかったんだよ。
上原子:2回目をやる時にはもう、坂さんは「ライヴやります」って誰にも言わなくなったんだよね。
増子:そういう冷たい男ですよ(笑)。
坂詰:常にクールを装いますから(笑)。
──いずれまた怒髪天をやるだろうなという考えは各々にあったんですか。
増子:俺はなかったよ。働いて生活の保証もあったし、何よりもこれでやっと生みの苦しみから解放されたと思ってたから。
上原子:俺もなかったね。気ままにギターを弾くのが楽しかったし、バンド自体もうやらないつもりでいた。
清水:じゃあ俺だけがあったわけだ。坂さんには聞いても意味がないからね(笑)。
──実際、活動再開はシミさんがいろいろと立ち回って実現しましたよね。
清水:それは多分、最初に俺が第三者として怒髪天を見ていたからだと思うよ。
増子:シミは俺に「ライヴをやってないで可哀想だ」って言うんだから。全然そんなことないのに(笑)。
──増子さんは確か、弟の真二さんに「楽器を覚えたらDMBQに入れてやってもイイぞ」と言われたこともありましたよね。
増子:言われたね。よくDMBQのツアーの運転を手伝ったりしてたんだよ、アゴアシ付きで。みんなと遊びに行く感覚で、凄く楽しかったよ。でも、俺は別にDMBQに入りたいわけじゃなかったからさ(笑)。でも、真二は優しいなと思ったけどね。
清水:俺はファンとして怒髪天を聴いてた時期もあったから、怒髪天のライヴをもう一度見てみたいなっていうところから始まったんだけど、とにかく周りが「怒髪天もう一度やれよ!」ってうるさかったんだよ。西荻、高円寺周辺の人達が。
──活動再開を機に、思い切ってバンド名を変えようなんて話もありましたよね。
増子:そうだね。すべてを一からやり直そうと思ってたから。新しいバンド名の第一候補は"サムライブルー"だった。他にも"じゃがいも機関車"とか"夕暮れ係長"とか、いろいろ考えたんだけどさ(笑)。
清水:でも、イースタンの吉野やファウルの学から「坂本商店から正式に抗議の文書を出すぞ!」って言われてさ。
増子:「同じメンバーなのに何で名前を変えるんだ!?」って猛烈に怒られてな。
上原子:最初にさ、俺の家にみんなで集まったんだよね。バンドをもう一度始めるにあたって会議をやったんだよ、酒を呑みながら。
清水:ああ、そうだそうだ。思い出した。
上原子:A4の紙に新しいバンド名を書いたりしたんだよ。「いろんな決め事をしよう」ってことで、ホームページの担当はシミとか、そういうのを俺が几帳面に書き連ねていったんだよ。自分達の企画名を考えてみたり、対バンを考えてみたりさ。年間の計画表も立てたね。それは凄くよく覚えてる。
増子:俺は全然覚えてない(笑)。結構呑んでたからね。呑んで勢いが付いてたんだろうな。
上原子:でも、そんな計画を立ててからまた随分と時間が経っちゃったんだよね(笑)。
清水:そう、そこから3ヶ月くらい何の動きもなかったんだよ(笑)。
増子:しかも、リハに入ってものらりくらりでどうにも噛み合わない状態だったんだよね。リハビリに1年掛かったからね。
──マーブルダイヤモンド(当時)との共同企画『ディスカバリージャパン』の第1回が2000年2月のことですから、再始動から本当に丸1年ですね。
清水:それくらいは掛かるよ。だって、バンドを休んでる間に坂さんはドラムがもの凄くヘタになってるしさ(笑)。
坂詰:でも、たまに独りでスタジオに入ってたこともあるんですよ。CDに合わせて叩いてみたりして。
清水:昔みたいなバランスの良い坂さんの音じゃなくて、何だかやけにドタバタしてる感じだったんだよ。まァでも、新曲が出来てから流れが変わったんだよね。
上原子:そうだね。「サムライブルー」や「情熱のストレート」、去年出したベスト盤に入ってる「ハナオコシ」はその頃もう出来てたから。
自分達がバンドを楽しむことが第一義
──こうしてこれまでの軌跡を振り返ると、やっぱり本当の意味ですべてが始まったのは活動再開以降と言えるんじゃないでしょうか。
増子:そうかもしれないね。その前は余りに長すぎるモラトリアム状態だったからさ(笑)。でも、活動を再開させてからは何しろ早かった。今回のDVDに収めたAXまでの9年間は恐ろしく早かったね。あのAXでのライヴで、俺の中ではひとつの句読点が付いたんだよ。今は凄く真新しい気持ちだし、"さぁ、ここから何をやろうか!"っていう感じ。この9年間でいろんなものを吸収できたけど、"ヨシッ、ここはガチッと行かなきゃな!"っていう気負いはここ何年間かがピークだったよね。だから、この間の野音のライヴは凄く楽しくやれたね。あらゆる要素をひとつのものに向けて積み上げていくような感覚は、もうしばらくないような気がする。それよりも今はまた一個一個積み上げていく楽しみが出来た感じだね。
──フライハイトからテイチクへ活動の拠点を移して以降、増子さんの言う"積み上げ"が本格化していったように思いますね。
増子:そうだね。あの頃は音楽的なことに目覚めたと言うか、曲を作っていく上での実験をいろいろと試してみたい時期だった。『ニッポニア・ニッポン』はまさにそういうアルバムだったね。
──テイチクへ移籍以降、特に友康さんは矢継ぎ早に新曲を書き上げなければならないプレッシャーが常に付きまとっていたと思うんですが。
上原子:確かにね。『武蔵野犬式』くらいまでは割とゆったりとしたペースで来てたんだけど、それ以降リリースを増やしていこうということになって、自分でもそんなにたくさん曲が出来るんだろうか? っていう不安はあった。でも、次の『TYPE-D』を作れたら大丈夫だろうなと思っていて、実際に作れるようになって自信が付いたんだよ。そこからは曲をどんどん作れるようになったし、曲が出来なくて悩んだことは一度もないね。ただ、何曲も作って一気に増子ちゃんに渡しても混乱するだろうし、焦点を絞って渡すようにはしてるかな。
増子:友康は毎日曲が作れるからね。とにかく多作だよ。
上原子:趣味みたいなものだから、家でギターを弾いてれば気分が良くなって唄っちゃったりしてるからね(笑)。
──シミさんはここ数年の怒髪天の流れをどう見ていますか。
清水:何だろう、どんどん変化し続けてるのはイイことなんだろうなと思ってる。曲の作り方もそうだね。一度出来上がった曲を客観視すると新たな課題も見えてくるし、また次のステップに繋がるから。そうやってどんどんイイ方向に変化できてる気がするよ。たまにほら、変化しすぎてダメになっちゃうバンドもいるじゃない? そうではなく、芯にしっかりと怒髪天というのがあって進化し続けてるからね。だから今もこうしてずっとやってこれてるんだろうなと思う。
──それこそ、シミさんが客席で見ていた20年前の怒髪天と今とでは音楽性も異なりますよね。
清水:でも、それでもやっぱり怒髪天なんだよ。増子さんであり、友康さんであり、坂さんなんだから。
増子:活動再開以降は基本に戻ったと言うか、バンドを楽しむことを第一の目的にしようと決めたからね。誰よりもまず俺達がバンドを楽しもう、作ってる曲も何より自分達が楽しもうと。評価は二の次で、まずそこだよね。自分達でやりたくてバンドをやってるんだからさ。
結果的に4本の太い柱になればイイ
──なるほど。4人中3人はきっとそう考えているんでしょうね(笑)。
坂詰:仰いますねェ...。シャラップ!
──失礼しました(笑)。でも改めて感じるのは、このメンバー4人の絆の堅さなんですよね。怒髪天の音楽に触れると、バンドの底力とは人間力の結束なんだということをつくづく思い知らされますから。
増子:俺が一番信頼に足るなと思うのは、メンバーそれぞれが怒髪天というバンドをすべての中心に置いていることなんだよね。あらゆることを天秤に掛けて怒髪天を選び続けてきたのは凄いことだと思う。坂さんなんて、そんなことをしなさそうでしょ? お金とバンドなら絶対にお金を選びそうじゃない?(笑) でも、最後はちゃんとバンドを取るんだよ。
──確かに、坂さんはテレヅメ,というソロの野望を蹴って怒髪天を選びましたもんね。
増子:まァ、選ばされてる面も否めないけどね(笑)。
清水:坂さんに自分から選択する権限は一切ないから。植民地みたいなものだからね(笑)。
増子:余りに広大な植民地だね(笑)。あとさ、メンバーそれぞれの変化が側で見てて面白いし、凄く頼もしいんだよ。たとえば、友康もライヴで全然動かないスタイルだった時期もある。それが今度のDVDを見ても判る通り、凄く活発に動くようになった。そういうのはとても面白いと思うし、俺が調子の悪い時に友康やシミが動いてくれるとちゃんと引っ張ってもらえるんだよ。"ヨシッ、俺もやろう!"って思えるんだ。息が切れて喉が渇いた時に友康とシミが前に出て交差してくれたりすると、後ろで水が飲みやすい。そんな時に坂さんのほうをふと見ると、"あ! 間違った!"みたいな顔をいつもしてるんだけどさ(笑)。
上原子:昔はなるべく演奏を間違えないようにしようと思ってジッと集中してたんだけど、そういうのもちっちゃいなと思って。同じ"ジャーン!"でも、大きなアクションを交えて"ジャーン!"って弾いたほうが"ジャーン!"度も違うんじゃないかなって(笑)。
清水:顔でギターを弾く、みたいなことだよね。
増子:まァ、友康も畜生やチェリーブラッドの頃はガンガンに動いてたんだよ。それがブルース寄りになって動かないようになったんだよね。当時はそういうのが格好良く思えたんだよ。ブルース・ブラザース・バンドもそうだったしさ。坂さんは最近、ラクに叩くことしか考えてないけどね(笑)。
坂詰:ラクに叩いたほうが音の抜けもイイんですよ。だんだんとラクに叩けるようになって、それだけ余裕が出てきたって言うか。
増子:ラクに叩けるって、それはちょっと聞き捨てならないなァ(笑)。
──そういった友康さんの動き然り、坂さんのラクさ加減も然り(笑)、この4人で20年間ずっとやってきて今もなお"こんな引き出しがあったのか!"という新たな発見があるのはバンドを長く続けているからこそですよね。
増子:ホントだね。いろんな意識が外に向いてきてるし、それによって4人がどんどんキャラクター立ちしてきたし、結果的に4本の太い柱になればイイなと思ってるんだよ。昔、友康がそういうふうに言ったことがあるんだけど。実際そういう感じになってきたし、長く続けてると面白いよね。
この先が楽しみだと思えるのは幸せなこと
──愚問だと思いますが、今純粋にバンドが楽しいですか。
増子:楽しいね。凄く楽しいよ。もっとやってやりてェなと思うし、もっといろんなものをゴチャゴチャと掻き混ぜてやりたいね。次に作る曲はもっとこんな感じにしてみようとか、考えただけで胸が躍るよ。このバンドなら何でもできるからね。
上原子:活動再開当初に「情熱のストレート」を作った時と、最近の「ドンマイ・ビート」を作った時とでは明らかに曲の傾向は違うんだけど、自分の中では"こういう音楽がやりたい"っていう最終形があってそこに進んでるわけじゃないからね。いつもこの4人で最高のものを最高の形でドン!と出してるだけだから。ただ、この間の『LIFE BOWL』みたいにシンプルでブッとい感じ、なおかつメロディアスな感じに持っていきたいとは漠然と考えてるんだけどね。今はまた凄くイイ曲が出来そうな気がしてるよ。
増子:あと曲について言うとさ、求められたものを器用に出していくことだけじゃなく、そこからちょっとハズした遊びをやってみたいと今は思う。「ドンマイ・ビート」で敢えて禁じ手にしていた4つ打ちをやってみたのもそうだし、「最後のひとり」で試みたレゲエのテイストもそうだった。俺自身凄くレゲエが好きだから、このバンドでは敢えてやりたくなかったんだよ。自分達なりにきちんと咀嚼して出せないと思ってから。でも、そういうこともちゃんと俺達の色に染めることができる自信が付いたし、まだまだやれることがいっぱいあるんだよね。音楽を作ってる人が聴いたら凄く面白く感じる音楽をやってると思うよ、なかなか気付かれないけどね。まァ、そこがイイんだけどさ。
清水:俺もベーシストとしてまだまだやれることがいっぱいあると思ってるよ。と言うか、まだまだいっぱい練習しないと(笑)。
増子:俺が好きなのは『リズム&ビートニク』みたいに躍動感のあるベースなんだけど、単調にリズムで弾いていくだけのベースも大事なんだと今は思うね。それじゃないとできないこともある。ベースを平らにしておくことによって、上物のメロディがちゃんと活きるんだよ。
──『リズム&ビートニク』はフライハイト時代最後の名盤でしたよね。
増子:『リズム&ビートニク』は俺も凄く好きな作品だけど、ギターもメロディ、ベースもメロディ、ヴォーカルもメロディでしょ?
上原子:やっぱりこの4人だと詰めちゃいがちと言うか、作品作りに没頭して内に籠もっていきがちなんだよね。
増子:隙間を全部埋めたくなるんだよね。それは誰しもが陥りがちなところだと思うんだけど、シンプルで判りやすいものを作るのが如何に難しいかってことだよね。
上原子:ここ数年ライヴの本数が増えて改めて思ったのは、お客さんがいることの大切さって言うのかな。「ドンマイ・ビート」もライヴでお客さんが踊ってる姿を想像しながら作ったんだよ。ライヴで「ドンマイ・ビート」をやってお客さんが想像通りに踊ってくれると凄く嬉しいし、その曲を作った甲斐がホントにあったなと思う。去年の年末に出た『カウントダウン・ジャパン』で、DJの人が「ドンマイ・ビート」をかけてくれたことがあったんだよ。お客さんがそれに合わせて踊ってる姿を見て、俺は凄く感動したんだよね。音楽って凄いなって思った。
増子:まァ、「ドンマイ・ビート」はまさか踊りがあんなことになるとはね。軽はずみなことをするもんじゃないなと思ったね(笑)。FM802のラジオで出番待ちをしてる時に、たまたま『サタデー・ナイト・フィーヴァー』のDVDが流れてたんだよ。"この踊りイイなァ"なんて思って一度ライヴでやったら、そのまま定着しちゃったんだよね(笑)。
──20年という歳月が経って、率直なところどう感じていますか。
上原子:他のバンドが20年なんて聞くと単純に凄いなと思うんだけど、自分達に限ってはそんなに経った気が余りしなくてね。目の前にある壁をその都度乗り越えてきた感じだから。ただ、20年も経つと記憶がどんどん曖昧になっていくね(笑)。最初に増子ちゃんとバンドを始めた頃のことがはっきりと思い出せなくなってきたし(笑)。そう考えると20年なんだなと思うよね。
清水:バンドは今もずっと続いてるし、20年だからっていう感慨は特にはないよね。それよりもこの先の20年のほうに興味があるよ。まだまだ新しいことをやれるんだからさ。
坂詰:僕は20年経ってもナチュラルな感じを忘れたくないって言うか...。
増子:坂さんはナチュラルじゃなくて天然ボケなだけだよ(笑)。まァ、20年間いろんなことがあったし、これからもあるだろうけど、この先が楽しみだなって思えるのは幸せなことだよね。
──今年から来年に掛けて、いろいろとメモリアルな企画が進行中なんでしょうか。
増子:まだ言えないけど、アニヴァーサリー的なことをいろいろと考えてるよ。俺達界隈は充分期待してイイと思う。作品としても面白いものを作ろうと思ってるし、イヴェントも面白いことをやろうと企んでるから。まずは坂さん解体ショーだね、漁港に頼んでさ(笑)。