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追悼 塩見孝也

2017.12.01

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老革命家・塩見孝也(元赤軍派議長、最高指導者)の「思い出」

text:平野悠
 

 私は今、100日以上にわたる世界一周船に乗っている。ハワイから横浜に戻る船中、ネットで塩見孝也の死を知った。

 18年にも及ぶ獄中生活を経て塩見は出所したが、昔の同志は誰も迎えには来なかったらしい。寂しい出獄だった。かの塩見が作った武装闘争を標榜する赤軍派はボロボロになって消滅していたのだ。

 連合赤軍のあさま山荘と、同志殺しの悲惨な結末により、高揚していた日本の新左翼運動は完全に終焉したと言っていいと思う。その後は、もっとくだらない新左翼各派の内ゲバの時代が長く続いた。革マル、中核派、解放派のバカな内ゲバで100人以上が死んだ。

 私が属していたブンド(共産主義者同盟)はとうに雲散霧消していた。心ある連中は、もう思い出したくもなく、誰もが口を閉じた。政治の季節に参加した誰もがあの時代を若者に伝えることすら拒否した。

 そして時代は「しらけ世代」に移行した。

 

LPO 三上治塩・見孝也・前田日明・鈴木邦男・高須基仁.jpg

 

 もう20年も前、出所したばかりの塩見は私の経営するトークライブハウスにやってきた。

「平野、俺はやっと行き場を見つけた。ここには俺の話を聞いてくれる連中がいる」と語った塩見が忘れられない。私の店で塩見は鈴木邦男(新右翼「一水会」元最高顧問)、園子温、森達也、宮台真司、若松孝二、などいろいろな文化人と知り合った。

 あの滝田修に「平野、俺はもう何もできない。追われている身だ。塩見を頼む」と言われたこともあった。

 彼はブンド赤軍の世界同時革命の夢が捨てられなかった。最後の最後まで。漫画でしかないのに革命というロマンを追い求めた。「縄文革命論」などを編み出したが誰も相手にしなかった。

「俺は連合赤軍事件の時は監獄に入っていたから、あの事実を全く知らなかった。あんな京浜安保共闘なんぞと野合を組むなんてバカな話だ。痛恨だ。俺の責任なのだろうか……」とこぼしていたが、周りは塩見の責任を追及した。

「塩見、ここで全てを背負うのがお前の任務だ。ちゃんとした総括をしろ。それなしではお前を許さない」と言われていた。

 塩見孝也は出獄してからいつだって孤立無援だった。彼はよく「平野、久しぶりに議論をしよう」と私を誘ってきた。彼と一緒に北朝鮮にも行った。そこで塩見はよど号赤軍の連中と決定的な別れがあった。さすがの塩見も北朝鮮を全面的にマンセーとは言えなかったのだ。

 イラクに人間の盾になりに行ったこともあった。その時の塩見は本当に嬉しそうだった。どこかに命をかけられるところがあることが嬉しかったのだろう、と私は思った。
 

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 2年前、塩見は清瀬市議会選挙に立候補した。彼は本当に当選するつもりだった。どこまでノーテンキなのか。

 私と雨宮処凛と鈴木邦男が応援演説に立った。彼は街頭演説でも「世界同時革命」を訴え続けてたのには感動した。買い物カゴを下げた清瀬市のおばさんたちはキョトンとしていた。清瀬の駅前で「日本のレーニン塩見孝也をよろしく」と演説したのは鈴木邦男さんだった。

 選挙運動最終日には赤軍旗と世界革命の幟を立てて、20人ぐらいで街を行進した。鈴木邦男さんなんか大喜びだった。まるで漫画だったが、塩見は真剣だった。 (街の人々はドン引きだったな。)

 投票結果は惨憺たるものだった。見事に落選した。

 今、私には塩見孝也の面影が走馬灯のようにぐるぐる回っている。いいやつだった。素敵な愛すべき老革命家だった。そして塩見の死によって、遅まきながら一つの時代が終わったと思ったのは私だけだろうか。

 安らかに眠れ。塩見孝也。世界革命は近い。あんたはやることはやり尽くした。時代遅れと言われようと。

 

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