沖縄のライブハウスで岡留安則氏と
どこに行っても暑い。人と車の洪水を見るだけでも暑い。夏休みの子供達が真っ黒になって、我が者顔になって騒ぐのも見たくない。結局、クーラーの効いた部屋に籠城し、本でも読んでこの夏をやり過ごすしかないな、と思っていた。
そんな時、元ロフトのスタッフで、今は故郷の沖縄でライブハウスをやっている上江洲氏から電話があった。なんと、出演依頼だった。「トークライブハウスの今後の行方」について語れとの要請だ。
「沖縄」と聞いて、もうなんにも考えず沖縄の海を思い浮かべ、「行く行く。ギャラも交通費も宿泊費もいらない」と、ふたつ返事でOKした。
これはあくまで私見だが、今や、既存の大手マスコミは劣化・体制化してしまっている。一方で、トークライブハウスには、「ライブ」の緊張感とハプニング性など、それらとは違う道を進もうとしている。日本初のトークライブハウスとして、ロフトプラスワンが誕生して来年で20年。トークライブは、堂々たるメディアのひとつとして市民権を得たということなのかもしれない。確かに私も、その創始者としていろいろなイベントによく呼ばれる。
「ところでわたしゃ沖縄では無名だし、友達もほとんどいない。一体誰がお金を払ってまでトークを聞きにくるの? 自信ないよ」と私は言う。
「いや、音楽のライブハウスでトークに挑戦してみたくて」。上江洲氏によると、ウイークデイにはロックのライブではなかなかお客も入らないらしい。
「那覇で飲み屋をやっている、元・『噂の真相』編集長の岡留安則さんを口説けば、少しは面白いトークになるか。多分承諾してくれると思うよ」と、話しているうちに企画内容も見えてきた。ゲストにはもう一人、地獄車というパンクバンドの下條スープレックスホールドさんが決まった。
こうして、7月28日、那覇にあるOutputというライブハウスで、「ロフト席亭 平野悠 沖縄ライブ」と題したイベントが行われた。
第一部では岡留さんと、日本と沖縄の厳しいアメリカ従属の現実を討論した。結構難しい話題で、若いお客さんはついて来れたかどうかが心配になった。第二部は下条さんとのロック論。60年代末〜70年代初め、はっぴいえんどが日本語ロックを歌った時の衝撃を話した。それから山下達郎やサザンやBOØWYの思い出話をした。お客さんは30人近く入った。打ち上げは岡留さんの店・瓦屋。若いパンクスの連中と、深夜まで飲んだ。
那覇のイベント風景。
左から、パンクバンド地獄車の下條スープレックスホールドさん、
元『噂の真相』編集長の岡留安則さん、そして私
辺野古で軍事滑走路建設の反対運動に参加
次の日、私はレンタカーを借りて辺野古に向かった。
辺野古の海は綺麗だ。このジュゴンの棲む珊瑚礁に、アメリカ軍の巨大な滑走路が2本も税金で作られる。
現地には、100人近くの座り込み抗議の部隊がいた。なんとしても基地内に埋め立てのブイ(アンカー)の搬入を許さない、という決意の集団であった。それにしても暑い。
機動隊、民間警備会社、そして防衛省や公安の連中が待機しているなか、沖縄の爺さん婆さんが悲痛な声で、息子のような年齢の若い警察官に懸命に話しかけている。同じ沖縄人という住民感情もあるのだろう。暴力的な強制排除には、なかなか踏み切れないでいる。東京の首相官邸前で行われている反原発抗議集会の警備の警官と同じように、「俺達も、本音では反対なのだよな」という表情が見えたような気がしたのは、気のせいだろうか。
さて、私ももちろん、座り込み闘争に参加した。警備側は、ゲート前に舗道も含めて厚いギザギザの鉄板(殺人鉄板と呼ばれている)とフェンスを新たに作っていった。
確か15時頃だったろうか? それまで抗議側のリーダーは「とにかく警察と揉めて怪我をしないように、挑発にのらないように」と言い続けていた。
し、しかし刹那! アンカー(杭)を載せたトラックが、ゲートの前までやって来た。軍事滑走路を作るコンクリートのアンカーを積んで、ゲートを通過しようとした。
突然、リーダーがマイクを使って大声で叫んだ。彼の目には涙がたまっていたのを私は見た。
「私たちは、何年も何年も、雨の日も嵐の日も、この杭を運ばせないために今までここで頑張ってきた。これだけは命をかけても阻止する。トラックのタイヤの下にもぐり込んでも阻止する!」
座り込み側に緊張が走った。私も、トラックの下にもぐり込もうと決意した。
80歳近い爺さんも婆さんも、身体を張ってゲートに入ろうとするトラックに殺到した。緊張と汗。「ここで死んじゃうかも?」という感じを私は意識した。我々に囲まれたトラックは、動こうとしなかった。
10分ほど警備側との攻防が続き、どんな防衛省の指令が来たのか知らないが、警察側が我々に対する実力排除を放棄しだした。そして、二台のトラックはゲート前からバックし、元来た道の方へ去って行った。凄い! 勝った!
すごすごと引き返したトラックを見て、我々は雄叫びを上げた。執念と気迫の勝利だった。もちろん、敵はまた、もっと大人数で抗議部隊の少ない時間にやってくるに違いない。だが、とにかく私もトラックのタイヤの下に轢かれないですみ、滑走路建設の第一歩を阻止したのだ。
翌日。昨日の興奮を引きずっていた私は、辺野古のさらに北、東村高江のやんばるの森に作られようとしている、ヘリパッド(ヘリコプターの簡易発着場)の座り込みに参加した。
いやはや、大変な沖縄訪問だった。軍事基地のない沖縄への闘いは、沖縄全島に広がっている。それを肌で実感した3日間だった。
キャンプ・シュワブのゲート前での抗議に参加する
巨大な軍事滑走路建設の資材が運び込まれるのを、
トラックの下にもぐり込んで阻止しようとする住民たち