世界初の試みといわれる「トークライブハウス」ロフトプラスワンが、東京新宿の片隅に誕生して18年。この間、東京では同種の空間も多数出現してきたし、書店、カフェ、ギャラリー、映画館などでも、トークライブは多くなってきているように感じる。このシーンは大きく広がり続けている。素晴らしい事だ。
いざ大阪! サブカルは西を目指す
独特の地域文化を持つ大阪に、トークライブハウスができたら面白かろう、なんて空想に耽って、「大阪に拠点を」を合い言葉に、ロフトはわき目もふらず大阪進出を決意した。
何度も大阪に行き、真夏の暑い最中色々な店舗物件を探し歩いた。大阪は私たちロフトグループにとって、全く未知な都会だ。特に私は、関西の右も左もほとんど解らない。
かといって、単に東京の文化をそのまま、大阪に輸出するのでは意味がないし、まったく成功は覚束ないだろう。大阪という地に根を下ろし、関西文化を目一杯享受し、東京と大阪それぞれが醸し出す、サブカルを中心にしたあらゆる文化を繋いでみようと思っている。一介の「よそ者」にそんな事が出来るかどうか、そもそも大阪の人達に受け入れられるのかどうかすら、解らないままの出発である。もう後戻りは出来ない。
大阪人を知るところから始める
オープンはすでに決定している。内装工事も開始した。「LOFT PLUSONE WEST」の開店スタッフは、ほとんど地元で固めることにした。従業員やブッキング担当者の募集は始まっているが、果たしてどんな連中が集まってくるのだろうか?
月40本近くのスケジュールが埋まるのか? どんなテーマにお客さんが来てくれるのか? 当面は、東京から交通費、宿泊費、ギャラを払って出演者を呼ぶことが多くなるだろう。しかし、それでは基本、採算は合わない。いずれ近いうちに、ライブの内容も出演者も、関西中心に組んでいかねばならない。
出店が正式に決まって以来、大阪の人の行動原理やその気質を理解しなければならないと思い、日々、ネットでもリサーチしている。
大阪は国内だがまるで異国で、「パスポートがいるくらい他府県とは違う」という人もいる。街全体が下町的で、開放的で、人情味にあふれている。食べ物は、うまい、安い、早い。物価も安い。おせっかいやきおばさんも必ずいる。根拠なく東京人が嫌い(笑)。
いやいや、なんとも興味深い情報が出てくる出てくる。まぁ、大阪の雰囲気を嫌悪せず、すべらず(大阪は笑いにシビアだ)、大阪をリスペクトしながら楽しくやって行きたいと思うのだ。
ロゴも決まった。大阪らしく派手で輝かしいでしょ
伝説の男・山崎春美
1月中旬のある日、ロフトのヘッドオフィスで、伝説の山崎春美と会った。
80年代初頭、日本のアンダーグラウンド・シーンにものすごいバンドが現れた。スターリンやじゃがたらや非常階段を飛び越え、まさに究極的破壊的なシーンをライブでやり続けた「自殺未遂ギグ」で一躍名を馳せた「タコ」。そのバンドを率いていたヴォーカリストが山崎春美だ。当時の宝島には、「自殺未遂ギグで染まったTシャツプレゼント」なんて記事が出ている。ライブの様子を映したビデオも残っているのだが、看護婦の姿でステージに付き合っているのは、若き日の精神科医・香山リカ。こんな刺激的シーンはもう二度と見られないのかもしれないな。
この時代、実に混沌とした面白い音楽シーンが続き、私にとっても青春だった。次から次に出現する新しいロック・シーンに驚嘆の声を上げていた。
とはいえ当時の私は、彼らのあまりの過激さにびくついて、ロフトではライブをほとんどやらせなかった。しかし一方で、彼らへの興味を抑えきれず、渋谷La.mamaや法政大学学生会館にわざわざ何度も観に行った。お客はヘルメット持参だったりした。それほど危ないギグだったわけだ。
ライブハウスを運営する側としては、この頃のアンダーグラウンド・シーン、とりわけパンクにはほとほと手を焼いた。汚物を撒き散らしたり、物を破壊したり、とにかくメチャクチャなのだ。このあたりの現場の事情は、私の著作『ライブハウスロフト・青春記』(講談社)にも詳しい。
その山崎春美も今や50を超えた。そして最近、河出書房新社から「天國のをりものが:山崎春美著作集1976-2013」という本を出版した。彼は元々、自販機雑誌などの世界で活躍する優秀な編集者であり、ライターでもあった。河出書房新社が山崎の文学的才能に惚れて、凄い豪華本を出版したのだという。山崎春美を第二の町田康にしようとの試みか? ともかく、サブカルチャーに興味がある人は必読だ。
20数年ぶりの再会? 山崎春美と事務所で記念写真
1月のある日の夕刻。調布から国道20号線を新宿に向かって、ただただ愚直に歩く。1時間も歩いただろうか、千歳烏山を通り過ぎようとしたとき、突然、42年前に開いた1号店、烏山ロフトを思い出し、その頃世話になった友人と会いたくなった。電話をすると幸運にもすぐに捕まり、一緒に呑むことになった。ただただ過去を懐かしむ。
烏山ロフトは7坪しかない小さなジャズ喫茶だった。私の原点だ。毎日ボトルを一本空けてくれた「恩人」と