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映画「香港画」 - 「暴力で対抗することは相手と同じ土俵に立つ」と思っていたかつてのわたし自身へ

2021.02.04   CULTURE | CD

現在全国で公開中

「暴力で対抗することは相手と同じ土俵に立つ」と思っていたかつてのわたしへ

 
「暴力に暴力で対抗することは相手と同じ土俵に立つことになる」という声を聞く。
2019年の香港民主化デモを記録したドキュメンタリー『香港画』を見ながら、その言葉について考えていた。
 
その気持ちはとても理解ができる。
なぜなら、かつてわたし自身がそう思っていたからだ。
 
わたしたちは、朝起きて好きな色の服を着て、本屋さんで読みたい書籍を選び、通信販売でほしかったものを取り寄せ、iPhoneでいつでもなんでもググることができる。気になったことがあればその場ですぐに調べすぎるし、アクセスのできないページなどないので、月末には通信制限になげく自由を謳歌をしている。
 
テレビで誰かが無神経で利己的な発言をすればSNSは炎上するし、差別的な発言には「どうしてそれがいけないことなのか」を説明することができる(残念なことにそれが伝わるとは限らないが)。
 
褒められたことではないというのを前提でいえば、政治家を名指しで批判することもできるし、汚いことばで罵ることだってできる。なんなら、感情にまかせて、これはむちゃくちゃだろと思うことさえ言うことができる。
 
好きなプラカードはコンビニで印刷ができるし、同じ趣味どうしで集まって話しあうことができる、当たり前のように「投票行って外食するんだ〜♪」と歌いながらそれを実行することもできる。2019年の参議院選挙では、選挙割でラーメンを食べたし味玉も追加した。
 
それでもなお、息苦しさをもって過ごしているし、1万文字でもたりないほどの不満がある。
不自由さだって感じている。
 
映画のなかで、15歳のジョー(実力行使を伴うデモの武勇派)が、ほんとうは人を傷つけたくないがこれしか手段がないと言う。
 
「暴力に暴力で対抗することは相手と同じ土俵に立つことになる」と思っていたかつてのわたしは、そもそも対話を求めていたこと、それが実現されないこと、存在を無視しつづけられること、それどころか黙らされてゆっくりとなにもかもを奪われていくこと、その結果だということを少しでも想像しただろうか。
 
抗うことは、未来を願うために手段を奪われつづけた結果なのだ。
最終的に残った手段が体を張った実力行使。
 
香港でのデモ現場で語られる言葉や、意思表示を奪われた人々の目、顔に直接むけられる催涙ガスや走って逃げる群衆、地面に押さえつけられる光景、地面に残る血、それらは決して「エグ…」と流し見することはできない。
 
警官隊に暴力的に制されながらもカメラに向かって語りかけようとする日本語は、息が止まりそうな切実さであった。わたしは、そう思えた自分にほっとしてから、相当がっかりした。強い思いを持って映画館に来ているつもりだったが、これほどの衝撃をうけている時点で、まだ所詮ひとごとだと思っているのだと気づいたからだ。
 
テーマがずれるが、この映画を見終わったあと、大好きなラッパーのMoment Joonが「現代思想」のブラック・ライヴズ・マター総特集号で書いていた言葉をなんども思い出した。世界で起こっているできごとについてわたしたちが声をあげるときに、同じ国内の人から冷笑されたときの答えとして、こう記していたのだ。「日本の人種差別と戦うため」と。
 
黙ったままでも通じる愛があるのならば素晴らしいことだが、愛だけをもっていても殺されてしまうことがある世界ではあまりにも悲しすぎる。わたしたちは一緒に喜ぶことができるように、一緒に声をあげることだってできるはずだ。(でも、それでも性善説を信じつづけたいし、大声でそう言える世界がいいから諦めないでいよう、それはまじで超たいへんで困難に思えるが!)(Text:成宮アイコ)
 

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