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INTERVIEW

トップインタビュー【復刻インタビュー】eastern youth(2006年3月号)- どうにか生きていくためにブルースが必要なんです

どうにか生きていくためにブルースが必要なんです

2006.03.01

インタビューの開口一番、吉野 寿は「加齢臭がグッと強まったアルバムでしょ?」と言って笑った。新たに「裸足の音楽社」を興したイースタンユースの通算11作目となるアルバム『365歩のブルース』は、若い時分のように必要以上に背伸びもせず、かといって居直るわけでもなく、バンドの身の丈に合ったありったけの力を最大限振り絞ったシンプルだがとても力強い作品集だ。パンクやハードコアという名のブルースが吉野にとって常に生きる支えだったように、僕もまたこの『365歩のブルース』を、イースタンユースの音楽を、憂いを乗り越えるためにずっと聴き続けるだろう。迷ってばかりの日々を繰り返しながら、それでもドッコイ生きる実感を探し続けるためにも。(interview:椎名宗之)

自分達の手で音楽を発信して、聴く人と関わりたい

──まず、昨秋に坂本商店を離れて、自主レーベル「裸足の音楽社」を立ち上げた経緯というのは?

吉野:離れたも何も、坂本商店は自分達のCDを出すために俺が作ったレーベルだし、“坂本”っていうのも田森(篤哉/ドラム)の旧姓だしね。でもいろんな人達が関わるようになっておっきなプロジェクトになって、フットワークが重くなってきたっていうことですよね。それを軽くして、3人でシンプルにやろうぜ、と。もう1回いちからやり直そうってところに来たってことです、簡単に言えば。それで、この際だから名前も変えちまおう、と。整理してまた坂本商店でやろうとも思ったんだけど、ちょっと心機一転でやり直したかったんですよね。裸足でやり直そう、と。迷ったら裸足になるしかないんですよ。

──自分達の活動をあくまで自分達の手だけで進めていくというのは、昨年から吉野さんが精力的に展開させているソロ・プロジェクト“bedside yoshino”にも通じますね。

吉野:うん、近いですね。やっぱり基本は忘れないようにしないとイカンし、常に基本に忠実でいたいんですよ。基本って何かっちゅうと、自分達は自分達の意志で音楽を選択して、演奏することで世の中と関わっていきたいってこと。でもそれにはいろいろと限界もあって、いろんな人達が聴きたいっていうのに応えるためにレコード会社の人と関わったり、こうして雑誌に喋ったりとかもするけど、基本は自分達の手で音楽を作って、その音楽を発信して、それを聴く人と関わりたい。それがそもそもの動機、すべての根源なわけですから。それにもっと忠実になってもいいなぁと思って。

──バンドが大きくなるにつれて、1対1で向き合うことがだんだんと難しくなっていく部分はありますよね。

吉野:ライヴのキャパシティが1,000人でも2,000人でも1万人でもいいんだけど、やっぱり1対1だっちゅうつもりでやらないと。実際、1対1なんですよね。バーッと群衆として人間を捉えるっちゅうのは人間に対する侮辱っちゅうかさ、無礼者ですよね。1人ずつが集まって1万人になってるわけだから。音楽を作って、ハイまた次待ってますっていうような、単なる流れ作業みたいな消耗品を俺は作りたくないし、そういうつもりで音楽をやってない。そういうことが求められていて、「オマエのやってることは違う!」ってみんなが言うんだったら俺は音楽やめるよ、すぐにでも。違う表現の仕方を考えるよ。

──イースタンユースの音楽が消耗品じゃないからこそ、酔っ払った明け方につい「夜明けの歌」を唄ったりする自分がいるんですけど(笑)。

吉野:それは嬉しいんですよね。やった甲斐があるっちゅうか、関わり合いができたってことだから。鼻歌でも何でも、その人にとって何かの意味があれば。俺達がプレイしたことによって、その人の人間性や生活と関わりができる、それが音楽をやる目的なんですよ。100万枚売れることが目的じゃないんです。そういうことを忘れて突き進んでいくと、平べったい顔になってきて、平べったいものしかできなくなる。俺は認めねぇ! って感じ、そんなのは。

──そういう姿勢はイースタンの根底に一貫してあるし、今回の『365歩のブルース』はその姿勢まんまのアルバムですよね。

吉野:そうですね。音質までもがね。もう一段階タフになったっちゅうか、腹はだいぶ括れてきた。前作(『DON QUIJOTE』)を作る前くらいに「最早これまでか!?」ってくらいの気持ちになって、それを吹っ切るために七転八倒してみたんですよね。誰にも会わなかったりさ(笑)。そこで判ってきたものがあって、仕切り直せたっていうのはあるですね。もう怖くないって感じ、自分がこのバンドで継続させていくって面では。

──「結論は求めない!」という「小羊と月明り」の歌詞も、迷いが吹っ切れた表れなんでしょうか?

吉野:「結論は求めない!」って言わざるを得ない混沌なんですよね。「結論は求めない!」って言うってことは、それでも結論を求めて探してることでもあるわけ。「結論は何だ!?」「俺が生きてる意味は何だ!?」っていうのは永遠のテーマなんだけど、結論はなかろうと思ってるんですよ。生まれてきて死んだっちゅうことが一個の事実で、それが結論ですよね。それを追っかけないでタカを括っちゃうと、ただメシ喰って寝て…ってだけになる。「それは生きてることになるのか?」っていうことを自分に対して問い掛けて、いつも考えてる。

──今回は、前作以上にエンジニアの南石聡巳さん(毒組)の存在が大きく、時にはメンバー以上にクリエイティヴな視点で曲の方向性を捉えていたこともあったそうですが。

吉野:そうですね。南石さんは「俺について来い!」っちゅう感じじゃなくて、バンドが何を求めているかを掴もうとする人だし、それを掴んだ上で自分のできる技術とノウハウを提供していくタイプだと思うから。前回も凄くいいコミュニケーションができて、今回はより突っ込んで考えられた気はしますね。音をどうしたいのかって話になった時に、より有機的で人間っぽい、奥行きを活かしたような方向にしたいってことになって。じゃあそういうふうに録るにはどうしたらいいのかっちゅうのはそう簡単には行かなくて、南石さんとニノ(二宮友和/ベース)がリーダーシップを執って、ああでもないこうでもないってやったんです。特にミックスとかは、かなり的確に南石さんテイストがグッと入っていい感じになってると思いますね。

いつも音楽が支えになってくれた

──各パートが有機的に結び付いて、ニノさんの言葉を借りると「ずいぶんしなやかになったのに、ますます濃くなった」感じなんですが、吉野さんの歌声の凄味が増したことがとりわけ印象に残ったんですよね。

吉野:歌入れの初日に録ったものを家に帰って聴いたら、何だかキレイすぎて気に入らなかったんですよ。要するにキレイに録って、聴きやすいように調整してラジオでかけやすくするような音楽がやりたいのか? と。そういうことじゃねぇだろ! ってところから始めてるから。もっと人間的っちゅうか、音をちっちゃくしたらそのままちっちゃくなっちゃう、でっかくすると空間ごとでっかくなってくるような、そういう感覚で音を録っていこうと決めたから、歌だってそうだってことですよね。それで1曲目からブッ壊そうと思って録り直したんですよ。

──吉野さんの歌声が今までになくザラついた感じで、いい塩梅で酒焼けしてるというか(笑)。

吉野:ははは。雑だったのかなってちょっと後悔気味なんだけどね(笑)。

──でも、そのラフな感じが凄く良くてグッと胸に染み渡るんですけど、と同時に凄く繊細でもあると思うんですよ。

吉野:そういう意識は、一人でやり出して少し変わってきたところはあるかもしれないですね。だから逆に唄いっぱなしにしちゃうっていうか。前は、後で聴き直すと恥ずかしいから直したいっていうのが凄くあったんだけど、「オマエはそういうヤツなんだから、機械の力で誤魔化そうとしてもダメだよ!」ってことですよね。誤魔化してもしょうがないし、自分のありのままの姿を真実として提示することが聴いてる人への誠意と思ってやってるんですよね。

──今回は合理的に音を重ねる段取りではなく、曲ごとに必要な音を足していくやり方にしたら、かえってそのほうが合理的に作業が進んだそうですね。

吉野:そうそう。「必要ねぇなら足さなくていいか!」くらいの感じでやってったから。やっぱり若いうちは頭でっかちなんですよね。あれもしたい、これもやりたい、それも入れたいとかね。恰好いいってことに異常にこだわったり、逆に恰好悪いことに異常に恐れたりするわけ。そこを俺達は何年もやってきたから、楽器の呼吸感はしっかりしたものができてる自負はあるんですよ。それをより太くてあったかみのある音で録れば、俺達っていうものが表現できるんじゃないかってことですよね。それに+α、必要なものを少しずつ調整していく。その空間ごと、間ごと。俺達は常にアイコンタクトでプレイしてるから、そのアイコンタクトの感覚っていうか。そういうものがなるべく死なないように、だけどダイナミックに聴こえるように。楽器のダイナミクスみたいなものは、殺さんで録った筈ですよ。コンプでバッツリ前へ出さないで、弱く弾くと弱くなるし、詰まると詰まって遠く聴こえちゃう感じに。

──だから1曲1曲、細やかな息づかいまでが生々しく聴こえるんですね。

吉野:そう。人間がやってるんだぞ、そんなにギターも巧くねぇんだぞってことがはっきり判るように(笑)。あと、リズムの躍動感っていうのがひとつテーマとしてあって、ボッカーンと盛り上がる時にトレブルでジュアーンって盛り上げるんじゃなくて、プレイの熱でムクムクムクムクーッと膨らむようなものを表現したかったわけ。それができてるかどうか微妙だけど、そういうのはバンドで追求してるところなんですよね。

──ニノさんが公式サイト内のレコーディング日記で書かれていた“エロ中年的哀歌”っていうのは、「瓦の屋根に雪が降る」のことですか?

吉野:ああ、そうでしょうね。ちょっとムード歌謡っぽいもんね(笑)。俺としてはもうちょっとFUGAZIみたいな感じで作ったんだけど、歌を乗っけてくとムード歌謡になっちゃうんですよね。エフェクターのオン・オフは要らん、と。プレイの熱で起伏を付けようと思って。どの曲もベーシック・トラックは一発録りなんだけど、この曲だけはさらに各楽器同じ部屋に出して、マイクも何本かしか立てないで全部被るようにして、間違ったら全員やり直しっちゅう状態で録ったんですよ、完全アイコンタクトでね。“部屋鳴り”っちゅうか、その“間”を録りたかったんですよね。だから一遍に鳴らさないと“間”を録れなかったんですよ。

──アルバム・タイトルに堂々と“ブルース”という言葉を冠していますが、本来の意味での黒人哀歌というよりは、「伊勢崎町ブルース」のような日本的情緒を感じますね(笑)。

吉野:音楽形態的には全然ブルースじゃないじゃん! っちゅうね。“ブルース”っていうのは何も黒人音楽っていう意味じゃなくて、憂いの歌をもってして憂いを乗り越えていこうっちゅうか、そういう解釈なんですよね。5歳、6歳くらいの時にも5歳、6歳なりのブルースがあったんですよ。それと同じように、老人になったら老人のブルースがあると思うんです。で、今は今のブルースがある。俺にとってのブルースは、パンクとかハードコアだったわけです。あれは俺にとっては完全にブルースで、唯一の人生の慰めだった。だから俺はここまで乗り越えてやって来れたんです。憂いにブッ倒れそうになると、俺には音楽がいつも支えになってくれた。そこにブルースっていう感覚が生まれる気はする。だから、人それぞれに365歩分のいろいろなブルースがあるわけですよ。歌にはそんな力があると思ってるんです。それを携えて行くんだ! っていう、そんなお話ですっちゅうか。日常の挫折を唄った歌という意味合いにおいては、ロバート・ジョンソンとかにも共通点はあると思いますけどね。

──乗り越えて前へ突き進んでいくために、片道切符を握りしめて、走る列車に飛び乗って。

吉野:死んでないうちは生きてるわけだから、生きてる実感が欲しいんですよ。死んだらゼロだからね。世の中っちゅうのは生きてる人のためだけにあるから。死んだ人はいませんから、ここには。死んだら絶対に帰って来ることはないし、復活の呪文もないし、リセットも利かない。だから、どうにか生きていくしかないんですよ。そのためにはブルースが必要なんですよね。少なくとも俺には必要だし、必要な人のためにブルースはあるんですよ。

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