▲天主に向かう大手道(撮影はいずれも2008年11月)。
こんにちは、大筒烈蔵です。先月に引き続き「幻の城、安土城」についてペラを回していきましょう。
1579年に完成したと言われる安土城。天下統一目前の織田信長の絶大な権力を誇示するかのような巨城でしたが、その運命は儚いものでした。1582年6月2日、あの「本能寺の変」が起きてしまいます。
京都で織田信長を討った明智光秀ですが、京都からほど近い安土城へ3日後に入城。が、中国地方で毛利と戦っていたはずの秀吉がダッシュで帰ってきてしまい、6月13日、秀吉軍と明智軍は山崎で激突、明智軍は大敗を喫します。んで安土城の留守をしていた光秀の甥、秀満が14日に城を退去する時に城下に火を放って安土城焼失、というのがよく言われてた通説。
でもこれ『太閤記』とか秀吉の都合の良いように書かれた後世の書物の話で、どうやら「明智は悪役だから、安土城燃えたのも明智のせいにしたらいいじゃん!」と濡れ衣を着せられたっぽいです。ていうのも、城下に火を放ってるんだったら城全体が燃えるはず。なのに近年の調査では天主や本丸しか燃えてないらしいんです。
じゃあ誰が犯人よ? てことになると、現在有力なのが、織田信雄説。信長の息子ちゃんです。結構なおバカちゃんで有名です。このおバカちゃんが秀満退去した安土城内にいるかもしれない残党を炙り出すために火を放った、って宣教師のルイス・フロイスが書き記してます。普通、自分の親がおっ建てた立派な城に火を放つとか考えられないじゃん! という疑問が湧きますが、フロイスも「バカだから理由はようわからん」と記してます。
他にも野盗が城内に入って火を放った説もありますが、いずれにしても本能寺の変からわずか12日後に象徴的な天主や本丸は焼失しました。完成から3年ちょいの短命ですな。
とまぁ、今現在、当時の壮麗な城は見ることができません。でも城跡が残る安土山は今行っても充分楽しいですよ。天主へ向かう大手道やその脇の家臣団が居住してた邸宅の跡とかも整備されてて、歩いても楽しいす。途中、石仏とかが階段に使われてたりすんのも興味深い。信長は神罰も恐れない宗教嫌いなイメージがあるけど、安土城天主内には壮大な仏教絵巻の壁画があったらしいし、なんなら城内に摠見寺を城と一緒に建立してますもんね。こちらは現存してます。
▲途中、石仏を利用した階段も。
▲天主台から見える景色。昔は麓まで琵琶湖があった。
で、城を登ってって最後に不等辺六角形の天主台に辿り着きます。これがまたロマンなんすよ。ここに435年前まで壮大な天主があったんだ、眼下には楽市楽座で栄える日本一の町があったんだ(今は田んぼ)、反対側は琵琶湖が迫ってたんだ(今は田んぼ)とか想像するだけで尾てい骨がキュンキュンなりますね。下手にハンパな施設を復元するよりよっぽどマシ。観光客もほとんどいないですしね。しかし198メートルの小山なんで、軽く登山です。ビーサンとかはやめときましょう。私、二日酔いで行ったのでまぁまぁしんどかったです(照)。
んで、この安土城跡の近くには安土城天主信長の館や滋賀県立安土城考古博物館、向かいの山には観音寺城っていう石垣文化初期の貴重な城跡があるんで、併せて行って欲しいす! こちらは完全に登山ですが。てな感じで安土行く時はマルッと1日使ってドップリタイムスリップしてみてください。ほいじゃあまた来月、ダンケシェーン!(撮影:岡峰光舟 挿絵:西 のぼる 協力:新潮社)
▲天主台の内部。礎石も見える。