ちーす! 光城弓三です。あけましておめでとうございますですね!
昨年1年をかけてやった現存天守編も終わり、どういったテンションでやってこーかな、って思ってましたがまだやってないやつがありました。そう、自分にとって一番身近なやつ。地元の福山城です。
広島県福山市という町で生まれ育った私、幼稚園、小学生の時は城のすぐ近くに住んでいたため、福山城は遊び場であり通り道であったのです。城の北側の防空壕跡の崖を登ったり、護国神社あたりの小川でザリガニを釣ったり、広場で走るチャリからただ飛び降りるだけのアグレッシブな遊びをしたりしてました。そんなけっこうラフに遊べた(さすがに今はもうダメだと思う)福山城。どんな城だったんでしょうか。
▲現在の復元された福山城天守。
福山駅からよく見えますな(2008年撮影)。
福山城は大坂の陣も終わり、徳川の世になった1622年に家康の従兄弟、水野勝成が完成させます。10万石の石高には分不相応な巨大な城郭で、これは西国の外様大名への睨みを利かせるためだと言われます。城の建築費も幕府がガンガン出してます。さすが親戚、外様とはあからさまに扱いが違います。『真田丸』での江戸城のシーンは福山城が使われてましたね(その時の天守はCGだったけど)。
天守も5重5階地下1階の層塔型天守(塔を積み重ねるように造られるタイプで、江戸期になって確立された様式)の完成形と言える立派なものです。層塔型は見た目がちょいと淡白に見えるもんなんですけど福山城はびっちり破風もあるし、5階には廻し廊下と高欄があって、シムケンのバカ殿様が望遠鏡で町の衆を眺めていそうな雰囲気で見た目もバッチリ。でもこの廻し廊下は風雨に晒されて傷むからって江戸中期くらいからは板で囲われてしまいました。
▲100年以上前の古写真。廻し廊下が板で覆われてて、
北側に鉄板貼られてるのが分かります
(※撮影、俺じゃないです)。
んでこの天守の最大の特徴、て言うか全国的にも例がない面白いとことしては、北側が全面鉄板が貼ってあったということでしょう。これは福山城全体を通して北側の守りが手薄で、その弱点からの砲撃を防御するために厚さ3ミリほどの鉄板を張り巡らせたとか。こういうラフな「北側弱いの? じゃあ鉄板貼れば?」的な発想、好きです。
天守以外も福山城の規模が分かる例としては三重櫓が7つもあるということ。これは大坂城、岡山城に次いで3番目の多さであります。伏見城から移築されたと言われる伏見櫓も三重櫓なんすけど、これのサイズなんて並みの城の天守以上ですもん。伏見城から移築されたという建物は福山城にはたくさんあるんですけど、豊臣秀吉時代の伏見城は関ヶ原の戦い前哨戦でけっこう燃えちゃったんで徳川時代の伏見城を移築したのでしょう。
▲伏見城から移築されたと言われる伏見櫓。
並みの天守より全然でかい!(2008年撮影)
て言うか、福山城全然いけるじゃん! まだまだいっぱい書きたいことある! てことで続いてしまいましょう、次回。みなさんも年始に余裕があれば地元の城、城跡に行ってみたらちゃんと歴史があるはずなんで是非是非。今年も良い城イヤーを!
撮影:岡峰光舟 挿絵:西 のぼる 協力:新潮社