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斎藤文彦(web Rooftop2018年7月号)

武者修行

 
──海外のプロレス情報にも詳しいのが斎藤さんですが、もともと留学されていたんですよね?
 
斎藤:高校三年の二学期で日本の学校を辞めてアメリカの高校に編入しました。それから大学卒業までまるまる6年間アメリカにいました。これもプロレスの影響が大きくて、日本のプロレスラーって若手はみんな海外修行に行くんですよね。僕のころは坂口征二、グレート小鹿、上田馬之助、高千穂明久(のちのグレート・カブキ)らが海外修行を経て、別人のようになって帰ってくる。これはもう、一人前になるにはアメリカに行くもんだ、と。思い込みが激しかったんでしょうね。
 
──斎藤さんには武者修行だったんですね(笑)。
 
斎藤:そう、田吾作タイツ(ひざ下までのミドルタイツ。当時海外で活躍する日本人レスラーのトレードマークだった。)も履いてやろうかと(笑)。憧れましたね。
 
──その留学中にもうプロレス記者を始められているんですよね。
 
斎藤:ミネアポリスの高校を出て大学に入りたて、フレッシュマンの19歳のころ、毎月AWA(バーン・ガニアがNWAから独立して立ち上げたプロレス団体。ミネアポリスを拠点にしていた。)の興行を一番安いチケット買って観に行ってたんですけど、ある時ふとリングサイドが目に入って、「あそこに行くにはどうすればいいのかな」って思っちゃったんです。それで日本の月刊プロレスの杉山編集長に手紙を書いて取材できるようになったんですけど、最初はトシも顔も若いし日本人だしで、AWAのフロントにはなかなか信じてもらえなかったりしてね。最初に取材したのはバーン・ガニア対ニック・ボックウィンクルのAWAタイトルマッチでした。
 
──いきなり凄い試合にいきましたね!
 
斎藤:もう写真を撮りながらボーッとしてました。ここにいていいのかな?って。でもその最初の衝撃のおかげか翌月の二回目からすぐに慣れましたね。客観視ができるようになりました。そこから84年に帰国するまでは大学半分、プロレス半分で、大学が休みになるとアメリカ各地をまわってました。”南部の帝王”ジェリー・ローラーの取材でテネシーに行ったり、ダラスに行ってエリック兄弟を観たり、フロリダにゴッチさんに会いに行ったり。当時は各地にテリトリーがあって、それぞれにスター選手がいたんですよね。WWE(当時WWF)が世界征服する以前でしたから。
 
──ゴッチさん、どんな方でした?
 
斎藤:本当に思った通りの尊敬できる方でした。喋った時期、シチュエーション、相手によってストーリーを変えたりしない方なんですよ。「あの時のあの話、もう一回教えてください」と伺っても一貫した話をしてくれるんです。
 
──…そして、ちょっと長い、と(笑)?
 
斎藤:そう、ちょっと長い(笑)。でもチャーミングなんです。会話好きなんですよね。いつもニコニコしていて、いつもガム噛んでるんです。ゴッチさんのことなんで顎を鍛える目的もあったんでしょうけど、そのほうが集中できるたちなんでしょうね。総入れ歯なんですけどね(笑)。日本に住んでいたこともあって、日本人に教えるときは日本語なんですよ。もちろん片言ですけど、「右!」とか「左!」とか「前!」とか、「もう一回!」とかね。後に『格闘技通信』の企画でゴッチさんを連れて相撲の九重部屋に見学に行ったことがあるんですが、まぁ当時ですから鉄拳制裁があるわけです。それをゴッチさんが見ながら、「あれはダメだ」と。「暴力は憎しみを生むから絶対にダメだ」と話されてました。ゴッチさんはお刺身が好きでねぇ。お造りの舟盛りも一人で全部食べちゃうんですよ(笑)。
 
──記者として最初にインタビュー取材をした選手は誰でしたか?
 
斎藤:AWAのジェシー・ベンチュラですかね。「日本人のカメラマンがいるぞ」って向こうからイジってきたんですよ。アドリアン・アドニスとのヒールタッグで活躍していて、革ジャンのアドニスとド派手なガウンのベンチュラ。とにかくカッコよかったんですよね。大好きになっちゃいました。試合はアピール多めで技はベアハッグとかパンチとかばっかりなんで日本ではちょっと難しかったんですが、佇まいととにかく”所作”。所作なんですよね。アメリカで見ないと伝わらない部分があるんですよ、ああいうプロレスは。当時のAWAはベテラン王国だったので、試合する相手もガニアとかマッドドッグ・バションとかクラッシャー・リソワスキーとか、バロン・フォン・ラシクとか…。彼らのように若い選手を取材するのは楽しかったですよ。年が近いから向こうもフレンドリーでしたしね。あの頃のAWAは面白かったですよ。ホーガンがいたり、そのあとブロディが来たり、ロード・ウォリアーズも来て友達になりましたね。ブロディは空港で捕まえて取材したことがあるんですけど、ちゃんとリベラ(目黒にあるステーキハウス。外国人レスラー御用達で、店のロゴが入ったジャンパーやスウェットを身につけることは外国人レスラーにとって”プロレス大国・日本帰り”の箔付けになっている。)のスウェットを着ててね(笑)。空港のロビーで小一時間話してくれたんですよ。とにかく目が怖くて、とにかく頭の回転が速い。まさにインテリジェント・モンスター。”魔力”を感じる人でした。その後、全日から新日に移籍して猪木戦。そのころにはもうブロディにベタ着きで取材をしてました。でも何度取材しても他の選手みたいに”親しさ”が生まれることはないんですよね。常に緊張感のある人でした。
 
──当時の取材で心がけていたことはありますか?
 
斎藤:当時のゴングや東スポのような”キャラクターに沿ったインタビュー”から、もっと一歩踏み込んで内面を伝えるような内容にしたいなと思っていました。
 
──いろいろな選手を取材されてきたと思うんですが、親しくなった選手は?
 
斎藤:女子だとメドゥーサ、デビー・マレンコ、レジー・ベネット、男子だとホーク、ゴーディ、ウィリアムス、ビガロ…みんな亡くなってしまいましたが。だいたい同年代なんですよ。そのへんとつるんで六本木なんかに遊びに行くときについてきていたのがクリス・ベンワー。それもあの死に方だったしねぇ…。個人的に、試合とか関係なく仲がいいのはサブゥーとショーン・ウォルトマン(X-pac)。サブゥーはシークのお付きとしてFMWに参戦したときから仲良くなってね。グラジエーター、ボウダー、マイク・カーシュナーとも仲良くなった。ショーンにはユニバーサルで初来日したときにはラーメン奢ってあげたりしてたけど、すぐにスーパースターに変身した。ホーガンの家にも取材に行ったし、ビガロの家で一緒にレッスルマニアを観たりね。ジェリコは、今はあんなに大物になっちゃったけど、日本でやってたときからちょっと考え方が違った。すぐプロレス記者と距離を詰めたり、ひらがなカタカナを覚えたり。音楽マニアだから西新宿にブート漁りに行くのも一人で地下鉄で行っちゃったりね。「俺は日本で地下鉄乗れちゃうんだぞ」って感じで。バンドもやってプロレスもやって…。でもギターがいまイチうまくないのがコンプレックスなんだよね。弾けるんだろうけど、自分の中では人に見せられるレベルではないってことでボーカルに命かけているという。
 
──斎藤さんと言えば週刊プロレスでのお仕事ですが、名物編集長のターザン山本さんとの関係はいかがでした?
 
斎藤:僕は仲良かったですよ。ハタチの夏に一時帰国して、当時デラックスプロレスのアルバイトで山本さんに三ヶ月間くっついていたことがあるんです。まだ”ターザン山本”ではなく30代半ばの”山本隆司記者”。その頃からいろんなアイデアを持った人で、付録に手作りTシャツ用のアイロンプリントをつけたりタイガーマスクの顔のシールつけたり、VHSとカセットテープ用のサイズのタイトルシールをつけたり。そう、プロレス中継をカセットテープに”録音”する人も多かったんですよ昔は(笑)。大ブレイク直前のモノに鼻が利く人で、まだ新日本時代のハンセン、一番タイツの頃のホーガン、初代タイガーマスク、前田日明なんかをちゃんとがっちり掴んでましたね。その夏はちょうどブッチャーが全日本プロレスから新日本プロレスに移籍したタイミングで、京王プラザホテルの前で取材のために待ち伏せしてたら同じタイミングで移籍してたタイガー戸口に見つかって、誘われてそのままお茶したり、そのあと今度は新日本プロレスから全日本プロレスに移籍したタイガー・ジェット・シンを待ち伏せしてたら上田馬之助に見つかってまたそのままお茶したりね(笑)。取材にも一緒に行ってインタビューの勉強もさせてもらいました。
 
 
斎藤文彦 著
『ブルーザー・ブロディ 30年目の帰還』

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いまから30年前の7月18日、“あなた”はどこにいて、そのニュースを耳にしたのだろうーー。
超獣!キングコング!インテリジェント・モンスター!
世界に衝撃を与えた刺殺事件から30年!
不世出のレスラーの知られざる人生を語る
[独占インタビュー掲載!]
リング上では超獣ギミックを一貫して演じたが、
本来は家族思いの穏やかな人柄。
独自のレスリング哲学を持ち、
インタビューでは知性を感じさせる発言が多い。
また、緻密な試合運びは
ジャイアント馬場やジャンボ鶴田も称賛していた。