各人のソロ活動がフィードバックしたもの
──「ビデオのように」で前時代の遺物である磁気メディアをテーマにしたのはどんな理由からですか。
松永:90年代の、自分が10代のころの猥褻な部分を書きたかったというか(笑)。10代のころにデジタルビデオを買って、赤いワンピースの女に追いかけられたり自分の墓穴を掘ったりとわけのわからない自主映画を撮っていたんですけど、いま見ると90年代独特の画質というのがあるんですよ。当時のビデオフィルムって全体的に灰色がかってるんですよね。あの時代のちょっとグレーがかった陰鬱さみたいなものを歌にしたいなと思って書きました。個人的にはこういうクールな曲をいまのアイドルたちに唄ってほしいですね。
──「天使にしやがれ」に続く「しやがれ」シリーズの「少女にしやがれ」は、本作の肝と言うべきナンバーですよね。
松永:「天使にしやがれ」と同時期のデモにあった曲で、いずれは「しやがれ」三部作になるかもしれない……。「人間」という言葉は「人の間」と書きますよね。つまり人は常に誰かになりたがっている間を生きている。「少女にしやがれ」はアーバンギャルドをずっと聴いてくれてきた、大人に差し掛かった子たちに向けた曲でもある。あのころと自分は変わりつつあるけど「今夜は少女にしやがれ」って。クローゼットを開けるとあのころの「あたし」がいて、当時の洋服とともに甦るよ、という……。
──10年前といまを結びつけるというか、ふんわりとこの10年を総括するような曲なんですね。
浜崎:サウンドもそういう感じなんですよ。
おおくぼ:「この部分は『堕天使ポップ』だね」とか「ここは『プリント・クラブ』だね」みたいな感じで、アーバンギャルド・オマージュに溢れた曲なんです。
──そうした10年の歩みを象徴する曲で締めずに、既発曲である「大破壊交響楽」でアルバムを終わらせるのはどんな意図があったんですか。
松永:曲順は2週間くらいかけてみんなで何案も出した末に考えたんですけど、「大破壊交響楽」は「いなくなったあの子」に対する歌なんですよね。どこかへ消えてしまった「君」に向けた「僕」からの歌。そういうこのアルバムを俯瞰するようなもので最後を締められるかなと思ったんです。立体的にさせるというか。
──今回収録された楽曲はどれも鮮度が高くて瑞々しいけど、聴き手の琴線に触れるツボや曲づくりのスキルはちゃんと心得ているし、やはり10年選手でなければつくり得ない作品ではありますよね。
松永:その都度でタームみたいなものがあって、エレクトロに寄る時期、バンド・サウンドに寄る時期、内面に寄る時期、外にコミットする時期といろいろあると思うんです。そこをぐるぐると何周もしながらミュージシャン稼業をしていくんでしょうね。今回は比較的、外にコミットする時期というか、カラフルな感じに仕上がりましたね。
浜崎:ポップに振り切った感はありますよね。少女三部作と呼ばれたアルバムって、実はコンセプトがあるようでなかったんですよ。そのときにあった曲をとりあえず入れてみましたという感じが強かったんだけど、なぜか三部作と呼ばれるようになって。メジャー・デビュー以降はコンセプトに沿った作品をつくっていって、そこでちょっと疲れてしまった部分もあるんですよね。コンセプトに寄りすぎると、その時代を過ぎた途端に古く感じてしまうんです。「いまはこれ、やれないよね」という曲が出てきてしまうし、最初の話に戻りますけど、ライブでやるのに困ってしまう。それもあって、今回のアルバムはシングルっぽい曲が揃ったと思うんですよ。
──おっしゃる通りで、時事性を含む曲は年を経るとどうしても古く聴こえてしまうんですよね。
松永:今回のアルバムをつくるにあたって、「いままでつくってきたものをここで一度忘れましょう」と何度かメンバーに言ったんですよ。全部忘れてフレッシュな気持ちで曲づくりをしましょうと。それで仮に以前やったものが出てきたとしても、結果的に残るようならそれは大事な部分だから活かそうと。それと、浜崎さんは一昨年、おおくぼさんと僕は去年それぞれソロ・アルバムを出したじゃないですか。そこで自分のマニアックな部分やパーソナルな部分を知れたことによって、アーバンギャルドというフィールドで何がやりたいのか、改めて照準が定まったと思うんです。
──そう、各自がソロ・アルバムを出したことが何らかの形でバンド本体に活かされているはずだと思ったんですよね。
浜崎:ソロ・アルバムを出したことによって、それまで個々人が抱えていたバンド内のエゴがなくなった気がします。エゴはソロのほうで解消すればいいし、それをバンドにぶつける必要もなくなった。アーバンギャルドを俯瞰できるようにもなりましたしね。
松永:アーバンギャルドという少女が軸としているからね。浜崎さんのソロ・アルバムを聴かせてもらったら、僕のソロ・アルバムとは全然違うタイプのものだったんですよね。だけどそんな真逆のものを混ぜ合わせるとアーバンギャルドっぽくなるなと思って。
浜崎:ならないですよ(笑)。
松永:そこにおおくぼさんのソロと瀬々さんのソロをまぶすとアーバンギャルドになるのかもしれないけど。
アーバンギャルドはまだ全然完成していない
──瀬々さんはソロ・アルバムを発表する予定はないんですか。
瀬々:ちょうどいまつくってるところなんです。LAメタルとかハードロックとか、そっち方面で。アーバンギャルドでやってるようなニュアンスもあるんだけど、もっと自分のやりたいことに振りきったものにしようと思ってます。弾きまくりもあり、自分で唄ってみたりもあり。
松永:よく「音楽性の違いで解散」なんて言いますが、それで言えばアーバンギャルドほどメンバー同士の音楽性が違うバンドはないわけで(笑)。だけど、違うからこそさまざまなジャンルが交錯してこのバンド独自の音になっている。各メンバーが持っている色をアーバンギャルドという大きなコンセプトワークのなかでセッションしながら合わせているんだなと改めて思ったんですよね。
──各自のソロ活動が活発でいられるのは、アーバンギャルドという基軸がまったくブレない不動の存在だからなのでは?
松永:それはいろんな方から言われますね。各自がソロを出してもアーバンギャルドはアーバンギャルドでがっしりとコンセプトがあるので、バンドとソロを使い分けることができるんですよ。各メンバーのソロ・ライブを見に行くと、「この人ってこんな一面があったんだ!」って驚いたりするんです。浜崎さんの別人格を覗き見てしまったような。
おおくぼ:天馬くんはソロでもそのままだけどね(笑)。
──来月の中野サンプラザでの単独公演は、今回のアルバムの収録曲も披露されるんですよね?
浜崎:もちろんやりますけど、今回のアルバム中心というわけではないです。
松永:中野サンプラザは中野サンプラザで、これまでの曲をチョイスして、いままでやったことのない演出で表現したいと思ってます。レパートリーが膨大なので、選曲するのが大変なんですけど。
浜崎:まだセトリが決まってないんですよ。
松永:あれもこれもってなっちゃうと、どうしても30曲を超えちゃうんです。でもそこは時間内に収めなきゃいけないので泣く泣くカットするんですけど、やっぱりどれもこれもに思い出があるんですよ。
──それはファンの方々も同じ気持ちでしょうね。
おおくぼ:もし聴きたい曲が漏れても、去年フラッシュバックワンマンをやったから勘弁していただいて(笑)。
──今回の『少女フィクション』と中野サンプラザでのライブが10周年の総決算として集約されると思うのですが、この先もまだまだ面白いことを企んでいる最中ですか。
松永:新作のツアーもやりたいですね。手応えのある新曲がこれだけできたので、いまの新しいアーバンギャルド、最新形のアーバンギャルドを見てほしいですし。中野サンプラザはこの10年の総括だけど、これからを示すものでもあると思ってるんですよ。さっきも話しましたけど、10年前のアーバンギャルドは頭のなかで鳴ってた音楽をライブハウスで鳴らすところまで行けてなかった。いまはやっとライブハウスで鳴らせるところまで来たけれども、演出的な部分に関しては中野サンプラザみたいな場所でようやく少し形になるのかもしれないと思っていて。
──わかります。ホールライブの似合うバンドですからね。
松永:こんなことを言うたびにいろんな人に失笑されるんですけど、僕はアーバンギャルドをディズニーランドだと思ってるんですよ。ディズニーランドって世界観が徹底されてるじゃないですか。あの徹底ぶりにまだまだ追いつけていないし、その意味ではアーバンギャルドはまだ全然完成していない。僕らの音楽がもっとストリートに拡張していくようなイメージがあるのに、そのイメージをまだ全然形にできていない。死ぬまでに具現化しなければとは思っているんですけど、死ぬまでにサグラダ・ファミリアを完成させなきゃみたいな感覚に近いのかもしれません(笑)。
──アーバンギャルドはファストパス・チケットのないディズニーランドみたいな印象がありますね。待ち時間を節約できる利便性はないけど、待つ時間を楽しむことの大切さを教えてくれるようなところがあるので。
松永:「あたしフィクション」のMVで、万年筆から血がポタポタ垂れて手紙につくシーンを撮ったんですけど、そのポタポタが偶然にもミッキーマウスみたいになっちゃったんですよ。血痕の隠れミッキーみたいな(笑)。そういうアーバンギャルドの楽曲に潜む隠れミッキーを探し出してほしいですね。歌詞に隠された引用元とか音に隠された元ネタとか、オマージュや遊びをいろいろと仕込んであるので。聴き込めば聴き込むほど自分で知る楽しさがアーバンギャルドにはありますからね。僕らが垂らす血の痕に、隠れミッキーを探してください!