少女の歌は単なる歌でしかない
──今回は初のバンド名義のプロデュースだそうですね。
松永:結果的に新たな挑戦になったんですよね。既発曲は違うんですけど、新しくつくった曲は全部この4人でしかつくってないんです。僕以外の3人が頑張ってくれたということなんですけど、4人だけでつくりあげることでメンバー各自がアーバンギャルドというものを新たに問い直すきっかけになったと思うんですよ。外部の力を借りずに4人だけでつくることに最初は大丈夫かな? と思っていたんですけど、今回は自分たちの手だけでやりたいんだとみんなが言っていて。
浜崎:前からそう訴えていたのに、なかなか納得してくれなかったんですよ。説得してから2年かかりましたね。松永さんが全然メンバーのことを信じてくれなくて(笑)。
松永:疑り深い人間なんですよ(笑)。でも、本当に4人だけで大丈夫なのか!? と心配しているうちに、僕が主演映画の撮影に入っちゃったんです。それで「うーん、わかった! 頼む!」と見切り発車的にお願いしちゃったんですよね。
浜崎:そのおかげですごくやりやすかったです(笑)。
おおくぼ:鬼のいぬ間になるべく作業を詰めておこうと思って(笑)。バンドを10年もやっているといろんな人たちが関わるようになって広がりもできるんだけど、バンドの核の部分を自分たちでしっかり掴んでおかないと強度を増せないと思ったんです。
松永:「アーバンギャルドはDTMで曲づくりをするバンドではあるけど、バンドには自分たちにしか出せない音がある」とおおくぼさんが話していたんですよ。だから今回はなるべく自分たちだけで発する形で作業を進めたいと。外部の方が参加しないことで荒削りになる部分も多少あるかもしれないけど、その荒削りな部分も含めてバンドの良さじゃないですか? と。たしかにそれも一理あるなと思って。
浜崎:自分たちだけでもやれるんだということを今回は再確認できたし、それも自信につながったんですよ。
──『少女フィクション』というタイトルからして『少女は二度死ぬ』、『少女都市計画』、『少女の証明』という少女三部作を連想させるもので、10周年を意識していることが窺えますね。
松永:アーバンギャルドはずっと少女の歌を唄ってきたし、その少女とはファンの方にとっての「あたし」かもしれないし、浜崎さん本人のことかもしれない。でも歌自体は根源的にフィクションであって、単なる歌でしかない。ただ、歌であることによってその少女は聴き手の想像のなかで永遠に拡張し続ける存在なんです。だからアーバンギャルドが唄う少女の歌はフィクションと名づけるに相応しいし、これは『少女フィクション』だなと。『少女フィクション』=『SF』なんですよ。
──SF=サイエンス・フィクションではなく『少女フィクション』であると。1曲目の「あたしフィクション」では「あるときは女の子/あるときは少女/その正体はただの歌」と唄っているように虚構と現実の関係性がテーマで、メタフィクションの要素もありますよね。
松永:『昭和九十年』は現実の社会問題や政治問題にアクセスしたものになりましたけど、時代はそこからさらに進んで、いまは誰もがフィクション=虚構の世界に生きているというか。たとえばインターネットという非現実的空間もそのひとつで、いまやネットの世界に生きることに主眼を置いている人たちばかりになってしまった。鏡に映った自分の顔よりもインスタグラムにアップする加工した自分の顔のほうが現実だと思ったりとか。
浜崎:お仕事をご一緒したカメラマンの方の話なんですけど、とある撮影された女の子が「違う! 私はこんな顔じゃない!」と言って、「これが私の本当の顔なの!」とケータイのアプリで加工した写真を見せたそうなんですよ。「この顔で撮ってください」って。インスタの1枚の写真だけキラキラしてさえいれば現実をないがしろにしてもオッケーというか、いまはそういう時代なんだなとすごく感じましたね。
松永:まるで自殺予告するようにSNSのアカウントを消すのを喧伝する子とかいるじゃないですか。周囲がそのアカウントを救出すべく奔走したりして。そういうのはまぁ、はっきり言えば滑稽だと僕は思うんです。SNSのなかでいろんな人たちの物語やフィクションが書き散らかされているけれども、それらは結局、一時の感情や思い込みで書かれた断片的なものであり、昇華されきってないものばかりなんですよ。昨今はSNSでいろんなミュージシャンの作品やプロモーションが炎上したりするけど、炎上することによってお金や注目を集めようとする炎上ビジネスも横行する。YouTuberなんてその最たるものですよね。青木ヶ原樹海で自殺した遺体を撮影したアメリカの人気YouTuberが炎上して、謝罪動画をアップしたところ、その広告収入で1億円儲けたらしいんですよ。すごい皮肉な世の中ですよね。
作品とは感情を結晶化させる、昇華させるもの
──たしか謝罪動画が収益化設定されていたんですよね。
松永:去年の春にソロのMVを外で撮っていたら、「あの、すいません、YouTuberの方ですよね?」と声をかけられたんですよ。僕は10年くらい自主映画や自主MVを撮ってますけど、「YouTuberですよね?」と訊かれたのは初めてで、そこで時代の変化を実感したんですよね。そんなYouTuberのつくる映像のような、人の感情を操作することによって注目を集めるものが多い昨今だけど、作品というものは人の感情を結晶化させる、昇華させるものだと僕は思うんですよ。涙というものは血液と同じ成分で、人は本当に悲しいときや辛いときは血の涙を流すらしいんです。
──聖母マリア様も血の涙を流していましたしね。
松永:本来、作品づくりとは自分のいろんな感情をきちんと煮詰めて、それを十数行の歌詞にしたり、限られた3分くらいの歌に昇華する行為だと思うし、それがミュージシャンなりアーティストとしての生業だと信じています。だから同じフィクションとカテゴライズされても、僕らのフィクションはより強度のあるものにしたいんですよ。
──現実がフィクションに浸食されつつあるいまの時代だからこそ。
松永:そうなんです。インスタ映えを意識したスイーツもSNSに溢れていて、視覚的にはすごくカラフルで美味しそうだけど、実際に食べてみたら不味いものも多いらしい。人類がすっかり視覚に特化しちゃってるんですよね。
浜崎:人間の五感がだいぶ鈍くなってきているのかもしれませんね。私も「あれ、何だっけ?」と思ったときにすぐにググっちゃうから、いまはできるだけそうしないようにしているんですよ。
──コミカルで軽快な曲調の「インターネット葬」はそんな現代の仮想空間至上主義を揶揄するような歌ですね。
松永:そう、諧謔なんです。
──「恋活 婚活 妊活も/行き着くとこは生活だ」という歌詞が実に素晴らしいなと思って。簡にして要を得るとはまさにこのことだなと。
松永:自分で書いててびっくりしたんです。ああ、そういうことだったんだ! って(笑)。
おおくぼ:自慢げに話してたもんね。「知ってた? 恋活も婚活も妊活も結局は生活なんだよ!」って(笑)。
松永:就活、転活、終活、朝活と、なんでもかんでも◯活と表現すればすごいみたいなことになってるけど、それも全部、行き着くところは生活なんですよ。生活なんて別に目新しい言葉じゃないけど、そもそも人は普段からそんな目新しいことをやっているわけじゃないんです。
──あどけない2人の子どもが「幸せだなぁ/僕はネットをやっているときが一番幸せなんだ」「僕は死ぬまでネットをやめないぞ/だめかなぁ」と話す挿入部分も洒落が効いていますね。
松永:あの男の子2人は、待ち時間にずっとNintendo DSでゲームをやってたんですよ。ポケモンと妖怪ウォッチを延々やってましたね。「僕はインターネットじゃなくてローカル通信でゲームしてるから」って言ってました(笑)。
浜崎:ずっとゲームに集中して、こっちが話しかけても生返事だったんですよ(笑)。ある企画でディズニーランドへ行ったときも、アトラクションの待ち時間に子どもたちがずっとゲームをしていたんです。それを見て、待つ楽しさが世の中からなくなっているのを感じましたね。電車のなかでも大人はみんなずっとスマホを見ているし、その姿を子どもたちが見たら同じようになっちゃいますよね。
──先ほど天馬さんが涙の話をしていましたが、「どうして人間は涙が流れるの」と唄われる「キスについて」は歌とピアノを主体とした叙情性溢れる名バラードですね。
浜崎:私の母に「キスについて」を聴かせたら号泣してましたね。「なんていい歌なの」って。
松永:アーバンギャルドにはバラードらしいバラードがありそうでないよね、って話をしていて。アーバンギャルドがあえてメジャー感のあるバラードをつくってみたらどうだろう? と浜崎さんとおおくぼさんから提案が出たんです。
浜崎:私がどうしても入れたいとわがままを言って採用してもらったんですよ。というのも、私とおおくぼさんの2人でよくライブをやっているじゃないですか。対バン形式のライブでピアノに乗せてバラードを唄うと存在感が出ていいんじゃないかという話をおおくぼさんとしていたんですけど、既存の曲だと妙に長かったり、演奏しづらかったりしたので、王道のバラードを1曲欲しい気持ちがずっとあったんです。
──「平成死亡遊戯」も名バラードですけど、90年代のネットアイドルをモデルにしたテーマ性の強い曲でしたしね。
浜崎:あの曲はアルバムに入っている前後の曲との関連性がわからないと意味が伝わりづらいところがありますからね。
おおくぼ:そして曲が長いんですよ(笑)。6分以上あるので。
松永:30分のライブでバラードを1曲入れるには長いんですよ。