あなんじゅぱすの音楽は歌に耳が行く
あなんじゅぱすは、ひらたよーこを中心に複数のメンバーが演目や開催場所に応じて出入りするゆるやかなバンドだ。ドラマーとして様々なバンドで活躍している大光ワタルは、あなんじゅぱすのメンバーである只野展也(劇団I.Q150)に誘われてあなんじゅぱすに合流した。他にも、マリンバ奏者である澤口希とのユニット「あなんじゅぱすnano」で演奏している。
大光:あなんじゅぱすでやる時は師匠の只野さんがバンマスを務めますが、nanoでやるときは僕がサウンドプロデュースをしています。自分はもともとドラムを叩きながら打ち込みの音を乗せるのが得意だったので、あなんじゅぱすnanoは自分のスタイルにすごく合ってましたね。僕は音楽的な指向がインスト寄りで、普段はあまり歌を重要視しないんです。でも、あなんじゅぱすの音楽は歌に耳が行く、そういう強いものがありますね。詩に関しては、あなんじゅぱすをやっているうちに興味が出てきた感じです。あなんじゅぱすはよーこさんの歌ありきだなと思います。
1991年にSAKANAでメジャーデビューして以降、access、T.M.Revolutionなど多くのアーティストのサポートとしてドラムを叩いてきた大光ワタルとあなんじゅぱすはかなり異色の組み合わせと言える。
大光:確かに全然違いますよね。逆にそれが面白いんじゃないかな。
よーこ:大光君はパーカッションを手で直接たたくのが嫌なんだそうです。手づかみでごはんを食べるみたいで。
大光:たぶん生々しいのが苦手なんでしょうね。手で叩くのは恥ずかしい感じがしてしまって。たまにコンガとかを叩く機会もあるんですが、なるべく人に見られたくないです(笑)。
よーこ:私はいつも「手で食べちゃえー」って感じだから、それを大光君が上品にしてくれるんです。そのままだと気が狂ってて放送禁止になりかねない(笑)。
大光:よーこさんは基本生々しいですよね。激情型というか。
よーこ:歌っている姿はとても人に見せられない。だから『夜の江ノ電』の時はなるべくスライドを観てもらうようにしています。演劇の時もムラがあるというか、テンションが高い時と低い時の差が激しいとよく言われますね。
あなんじゅぱすnano 公演「ドリトル先生月から帰る」フライヤー
詩と旋律の必然性を解く鍵
よく左脳は言語や思考を司り、右脳は音楽やイメージを司ると言われるが、その両方の脳を刺激するのが優れた芸術と言えるのかもしれない。よーこは以前「音楽と言葉って全く違う要素でできてるにも関わらず、なぜか寄り添うと相性がいい」と言っているが、それこそがあなんじゅぱすの魅力であり、彼らが追求する「詩と旋律の必然性」なのだろう。
よーこ:音楽って言葉にできないものを表現できる。定義されていないモヤモヤしたものを表に出せるのが面白いですよね。詩と音楽では使っている所が違うと思うんです。詩を読んで最初にインスピレーションがあって「この詩で曲ができる」と思って作り始めるんですが、その時はどんなものになるのか全く分からないんです。それを何度も歌っているうちにその詩を自分の中で理解していく感じがあります。詩と旋律の必然性っていうのはきっと簡単なことなんだろうけど、それを解く鍵が必要ですね。
無限にある言葉と無限にある旋律が必然的に結びつく瞬間、そこにあなんじゅぱすの作品が生まれる。
よーこ:その必然は自分の中にあるだけなんだけど、曲ができた時はいつも「これしかない!」と思っています。それは人によって違うものなんだろうけど。矢野誠さんと一緒に作品を作った時は「え、矢野さんはこの詩にこのメロディーですか?」「でもこれ面白い!」っていう瞬間が何度もありました。私は現代詩を曲にする手法ってやる人がもっと増えるんじゃないかと思っているんです。秘密の鍵は誰でも見つけられるものだと思うから。だからその前に私たちの地道な活動に気付いて欲しい!(笑)。自分の作った曲は、やっぱり自分にしかできないものだという誇りもあるから、是非多くの人に聴いて欲しいです。
例えば、あなんじゅぱすは中原中也の「漂々と口笛吹いて」を歌っているが、この詩に曲を付けようというのはどうやって決めるのだろうか?
よーこ:読んでいて「あっ!」と思ったら本を譜面台に載せて歌っています。有名な「サーカス」はあれで十分ですよね。詩だけでもう歌っているから。歌う余地がある時、これは歌いたいと自分が思う時に歌います。自分は言葉に憧れていて、自分が書けない憧れがそこにあって、あっ、この言葉はまさに自分が言いたかった言葉だなという詩と出会うとたぶん曲ができるのかな。私はこういう言葉を紡ぎたかったんだなと。
あなんじゅぱす公演「タンポポ咲くソングラインに沿って」フライヤー