正岡子規の短歌から谷川俊太郎の現代詩まで100年の「ことばをうたうバンド」あなんじゅぱす。フランソワ・トリュフォー監督の映画「突然炎のごとく」の台詞「天使が通る〜Un ange passe」からバンド名をとった「あなんじゅぱす」は、結成以来「詩と旋律の必然性」を問い続け、その活動は音楽だけでなく、演劇、短歌、現代詩などジャンルを越えて高く評価されている。
デビューCDの解説で晄晏隆幸が「あなんじゅぱすの取り上げた現代詩の作品は、まるではじめからメロディーが付くことを前提としていたかのように、完全に『歌』に変貌している」と書いている通り、例えば、100年以上前に正岡子規と夏目漱石が交わした往復書簡(『夏の夜の音』)が、朗読と歌で織りなす音楽劇として演奏される彼らの曲を聴くと、誰もが新鮮な驚きを覚えるだろう。
11月と12月にNaked Loftで2ヶ月連続ライブを行う「あなんじゅぱす」を主宰するひらたよーこと屋台骨を支えるドラムの大光ワタルにお話を伺った。
[INTERVIEW:加藤梅造/撮影協力:ヴィコロ vicolor(鎌倉)]
ひらたよーこは父親である作編曲家の筒井広志の元で物心ついた時から周りに音楽がある環境に育ったという。
よーこ:鎌倉の七里ケ浜で育ったんですけど、父親が作曲家で小林亜星さんの事務所にいたんです。カンガルーレコードという水森亜土さんの装丁で、開けるとカンガルーのお腹にドーナッツ盤が入っているかわいいレコードを作ったり、小林亜星さんが『ピンポンパン体操』を作った頃で、私もそれを聴いて踊ってたり。いつも大人が集まってわいわい楽しんでる雰囲気で、子供心にも作曲って楽しい仕事なんだなあと思っていました。
音楽家が集まる家で、五線譜に絵を描きながら育ったよーこは自然とピアノで作曲するようになり、将来は自分も作曲家になると決めていた。しかし、彼女の無邪気な幼少期はやがて終わりを迎えてしまう。根っからの音楽家だった父親は母親以外の女性の所に行ってしまい、次第に家を空けるようになった。
よーこ:小学校に上がるぐらいからだんだん父親がフェードアウトしてしまって……。ショックだったのか、父親がいなくなった頃の絵日記は色がなくなっているんです。うすいモノクロの絵ばかりで、自覚はなかったけど、やっぱり寂しかったんでしょうね。もともとあまり喋らない子供で、言葉で表現するのが苦手だから一人でピアノを弾いてる変な女の子でした。
そんなよーこが言葉に興味を持つようになったのは、大学に入って演劇に出会ったからだ。
よーこ:大学の新聞で(当時、平田オリザが旗揚げした劇団)「青年団」が新入生を募集していたんですが、そこに書かれていた言葉がキラキラしていたんです。まるで詩みたいな募集文で。大学受験の時に家庭教師がいたんですが、その先生がおもしろい人で、キング・クリムゾンのCDを聴かせてくれたり、夢の遊眠社の舞台に連れて行ってくれたりして、自分も演劇をやりたいという気持ちは既にあったんです。大学の新入生歓迎ではたくさんの劇研が宣伝してたんですが、それがどれもかっこよくて私には無理だなと思ったんだけど、その中で青年団が一番ダサくて、ここなら自分でも大丈夫かなって(笑)。
青年団に入り演劇に夢中になる一方で、よーこは音楽をやりたいとう想いもずっと持っていた。
よーこ:青年団の舞台で私の演技を見た同級生がなぜかバンドに誘ってくれて、それでボーカルをやることになったんです。戸川純のコピーバンドで、うりうり楽団っていう名前だったんですが、そのバンドが学内ですごく受けて、なぜかワンマンライブをやることになった。国際基督教大学という留学生が多い大学だったんですが、ライブが終わるとその留学生達がみんな土下座してるんです。なんかすごく面白かったらしくて(笑)。そういうこともあってバンド活動が調子に乗って、そのうちにオリジナル曲をやるバンドを作った。それが後のあなんじゅぱすの前身ですね。
よーこは大学を卒業した後も、演劇とバンドの両方で活動を続けた。
よーこ:劇団とバンドはオーケストラと室内楽の違いみたいな感じかな。演劇ではいろんな人とつながるから刺激を受けることが多い。そこでインプットされたものをバンドでアウトプットするという循環が自分の中にできていきました。
あなんじゅぱす(左:大光ワタル、右:ひらたよーこ)
1996年、それまでのバンドを一旦解散し、よーこはギター&ベースの松山龍彦と「あなんじゅぱす」を結成する。この頃には、「ことばをうたうバンド」というバンドのコンセプトが確立していた。
よーこ:友達の演劇の中で谷川俊太郎さんの詩「あなた」をスライドで映していたのを観て、ああいい詩だなと思って、改めて谷川さんの詩を読んでみたら、そこに「新しい荒野」という詩があった。私は4歳ぐらいから作曲を始めて、そのほとんどがインスト曲だったんですが、最初に作った曲がなぜか谷川さんの詩とぴったり合ったんです。そこからインスピレーションが広がって、今まで作った曲に合う詩を見つけたり、逆に気に入った詩に新しい曲をつけるようになって、次第にレパートリーが増えていきました。
正岡子規が明治時代に輸入されたばかりの野球について歌った「ベースボールの歌」と晩年に結核を患い病床で書いた「夏の夜の音」、あなんじゅぱす(天使が通る)と同様のモチーフを歌った田村隆一の「天使」、永瀬清子が若き頃の自身の駆け落ちを回想した「あけがたにくる人よ」、近現代の詩をメロディに乗せて演奏するあなんじゅぱすの作品は湧き出る泉のようにどんどん増えていった。
よーこ:曲ができるとその詩人の方から許可を得ないといけなくて、それが大変でしたね。「あ、曲ができちゃった。手紙書かなきゃ。もし断られたらどうしよう」って(笑)。永瀬清子さんの著作権者の方にはなかなか連絡がつかなくて、ライブの直前にやっと連絡がとれたんですが、「許可って、もうチラシができてるんじゃないですか?」って言われて「どうもすいません!」みたいなやりとりをして(汗)。結局許可はいただいたんですが、それからはすごく応援してくださいました。今もライブのご案内に励ましのお返事をくださいます。田村隆一さんはもう亡くなっていたので奥様とやり取りしました。一緒にお墓参りに行ったりもしたんですが、私は気が小さいからその時もドキドキでした。
逆に谷川俊太郎はすぐに許可をくれたそうで、阿佐ヶ谷ライブの客席にふっと現れて詩集をプレゼントしてくれたこともあった。その詩集を曲にして矢野誠と共作した『クレーの天使』CDの発売記念ライブでは、谷川俊太郎の朗読と一緒に共演もしている。
あなんじゅぱす公演「水半球」フライヤー