1995年から函館で毎年12月に開催される函館港イルミナシオン映画祭。かつて森田芳光監督が「函館の街はまるでオープンセットのようだ」と口癖のように言っていたという「映画の街〜函館」から将来の日本映画を担う若手の監督・脚本家を発信しようと、新人から中堅までの作品を中心に上映する映画祭である。また、この映画祭は「映画を創る映画祭」とも言われており、毎年発表されるシナリオ大賞からこれまでに10本以上のシナリオが映画化・映像化されている。20周年を迎えた2015年には、函館の街を舞台にした映画制作を行うプロジェクトが始まり、その第一弾として作られたのが、いとう菜のは脚本の『函館珈琲』だ。
今回、映画の中で重要なキャストの1人である堀池一子を演じた片岡礼子に映画についてお話いただいた。(取材・文:加藤梅造/写真:(C)HAKODATEproject2016)
映画が自然に渦巻いている函館
片岡礼子と黄川田将也(映画『函館珈琲』より)
函館の古い洋館に集う若いアーティスト達の夢と葛藤を描いた群像劇である本作は、セットのような函館の街並を最大限に生かしてオールロケされ、まさに「映画に愛される街」函館だからこそ生まれた印象深い作品になっている。
片岡 イルミナシオン映画祭のシナリオ大賞は、脚本ならなんでもいいんじゃなくて、函館に根ざした物語ということが大事な趣旨なんですよ。だから今回の脚本を書かれた菜のはさんもそうですが、応募してくる人達はみな、函館に対するいろんな想いを持って脚本を提出しているんだと思うんです。去年の12月、『函館珈琲』の完成披露があった映画祭で次のグランプリ決定と受賞式があったんです。その時に、ある人が私の所に来て「映画観ました。感動しました」って言ってくれたんですが、その方は次のシナリオ大賞を獲った人だったんですね。それで私は「絶対映画化できるようにがんばってください。また函館で会いましょう!」って言って別れたんですが、そういう映画の繋がりが自然に渦巻いているのが函館ですね。だから自分がこういう形で函館に呼ばれたのはすごく幸せでした。
函館の街の中に佇む古い洋館「翡翠館」。ここはオーナーの萩原時子が、若いアーティストを育成するために貸し出しているアトリエ兼アパートで、ガラス細工の職人をめざす堀池一子(片岡礼子)、テディベア作家の相澤幸太郎(中島トニー)、ピンホールカメラの写真家・藤村佐和(Azumi)が入居している。ここに新たな入居者である桧山英二(黄川田将也)が函館にやって来た所から物語は始まる。
翡翠館で古本屋を開きたいという桧山だが、どこか人生を諦めているような風でもある。いつも元気で姉御肌の一子は、いきなり彼に仕事を手伝わせて翻弄し、強引に桧山を函館に引きずり込んでいく。
片岡 一子というのは、いろんなことを経験してきて尚も自分自身を模索し続けている、とても芯の強い女性なんですが、私は一人の女性としても一子に気持ちを掴まれた。それで脚本を読んだ瞬間に「この役やりたいです!」と言いました。しかも、声をかけてくださった河合信哉さんは私がデビューした頃からの知り合いで、いつか一緒に仕事できたらいいなと思い続けていた方なので、今回は「ついにその日が来た」という気持ちもありました。
テディベア作家であり翡翠館で一番若い相澤は桧山とすぐに仲良くなる。いつも無邪気で明るい相澤だが、ふとした瞬間に「函館の街は自分をほっといてくれるからいい」と言う彼にも孤独の影が見え隠れしている。そして一番謎の住民であるピンホールカメラ写真家の佐和。対人恐怖症で「人が写らないからピンホールカメラを始めた」という佐和は、毎晩一人でカメラを抱えて街を撮影し、その日に人と話した数少ない言葉をノートに書き留める。
翡翠館に集うこの4人の若者達は次第に距離を縮めながら、それぞれに抱える孤独や葛藤を吐露し、少しずつ前へ進んでいく。
片岡 撮影場所にはカフェみたいな大きいスペースがあって、そこが役者もスタッフも集まれるような待機場所になっていたんです。そこにいると、それこそ監督も含め、このシーンの演技どうしようか?みたいな話が四六時中できたんです。Azumiさんは自分の出番がない時にも来ていたり、黄川田さんも撮影の合間に別のシーンの演技プランを一緒に考えたり。それぞれの演技が魅力的なので、嫉妬しないぞーと思いながら、じゃあ私はこうしようという感じで日々やってましたね。本当にリアルで翡翠館みたいな現場でした。
ドラマだけど決して嘘ではない物語
片岡が演じる一子は4人の中で一番年上で、深刻な状況も持ち前の明るさで乗り越えるキャラクターだ。
片岡 西尾監督が大阪出身ということも大きかったですね。演技って嘘と言われればそうかもしれないんですが、そういうモヤモヤで一時期、映画から離れてた時期があったんですね。それで40歳手前ぐらいの時に、おべっかを使って生きている自分を全部削ぎ落としたくなって、これからは自分に正直に行くと宣言したんです。でも自分の感情を正直にそのまま出すと衝突する機会が多くなってしまった。どうしたらいいんだろう?と悩んだ時に、そうだ、笑いを取ればいいんじゃないかと。「正直さ」が暴力的にならないためには笑いが必要だと気付いたんです。そういう時に西尾監督という「笑い」を求める監督に出会えたのはすごくいい機会だった。
いつも明るく屈託のない一子だが、そんな彼女も実は暗い過去を秘めていた。ある晩、「居場所なんかない。いつも逃げてきただけ」と過去をカミングアウトする一子もまた、孤独な夜を彷徨い、函館に流れついた一人なのだ。
片岡 仕事でも家庭でも、自分は上手くいっていると思って漠然とやっていたことが、ある日突然寸断されることってあるじゃないですか。私は「ピンチがチャンス」って言葉が好きなんですが、そうは言っても、とてもチャンスとは思えないようなドン底の時もありますよね。私も十代の頃から映画一筋で生きていくって決めて、その後いろいろあって病気で休業してしまったこともあったんですが、そんな私が、今回、函館という撮影現場に一子として現れて、はたして人を感動させることができるのだろうか?と最初はすごく悩みました。だから私にとって『函館珈琲』は、ドラマだけど決して嘘ではない物語、ある意味、自分にとってのドキュメンタリーみたいな作品だった。私がこの時期に一子という役に出会えたのは人生の中で必然だったような気がします。
映画はメインの4人の若者の他にも、翡翠館のオーナー時子(夏樹陽子)、喫茶店のマスター(あがた森魚)、桧山の過去を知る男(小林三四郎)など個性的な役者達が脇を固め、物語により奥行きを与えている。
片岡 そういう意味でいうと、夏樹陽子さん、あがた森魚さん、小林三四郎さんもカッコいいんです。そのカッコよさは、スター性があるとか肩書きがあるとかそういうものではなくて、人生でいろんな経験を重ねてきて他人を受け止めることができるカッコよさ。自分もそういう大人になりたいなって自然に思えるようなものですね。
『函館珈琲』は若者の閉塞感と生きづらさ、その中でも決して消え去ることのない仄かな希望をテーマにした作品だが、映画を観て分かるのは、決して若者だけではなく、あらゆる世代の人が自分を投影できるような懐深い作品になっていることだ。作中、一子が近所の子供達にガラス細工を教えるシーンがあるのだが、片岡はこの時の中学生の一人と今でも文通をしているという。
片岡 手紙には「自分には夢があります。映画の撮影に参加できたことは、いま自分の中ですごく力になっています」と書いてあって、もう涙が溢れ出てきました。その時に、ああ、私も子供の頃にこういう手紙を書いたことあるなあって思い出しました。この映画は年齢に関係なくいろいろな世代の人達に響く所があるんじゃないかなと思います。だから映画への感想はどんなものでもくまなく読みたいと思っています。映画を観てくれた人と早く話したい。だからぜひ映画を観て、感想を言って下さいね!