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Report from Loft - What's Going On? VOL.2【Misao Redwolf(首都圏反原発連合)】

2015.04.06

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(Text:加藤梅造
 
 原発再稼働反対を訴える抗議行動が首相官邸前で始まってから3年が経とうとしている。福島の原発事故から既に4年が過ぎ、世間の原発に対する関心は次第に薄れつつあるが、金曜日の官邸前には冬の寒い時期でも毎週千人以上の人が集まり、また全国各地では草の根の抗議集会が今も行われている。今回、この金曜官邸前抗議を主催する首都圏反原発連合(略称「反原連」)のミサオ・レッドウルフ氏にお話を伺った。
 

社会の歯車には嵌まりたくない

 ミサオ氏が最初に原発問題に関わりだしたのは青森県六カ所村の核燃料再処理工場に反対する運動に参加した時からだ。2007年当時は坂本龍一氏が呼びかけたプロジェクト『STOP ROKKASHO』に多くのアーティストが集まったり、鎌仲ひとみ監督の映画『六ヶ所村ラプソディー』がロングランを記録したりと人々の関心が高まっていた。
「六カ所再処理工場の本格稼働が2008年と言われていたので、原水禁や大地を守る会など穏健左派の反原発団体や個人有志が呼びかけて2007年11月に日比谷野音で反対集会とデモをやろうということになり、私も誘われて実行委員会に入ったんです。その頃反原発運動をやっているのは年配の人達がまだ多く、若者のカルチャーを口で説明するのは難しいと思って、まず『NO NUKES MORE HEARTS』というタイトルとロゴデザインを作って会議で呈示したんです。最初は反対もあったんですが、あの手この手で説得していく中でミュージシャンのライブやトークもやることになり、結果的には2千人という当時としてはかなり多くの人が集まって集会は成功しました。私としては常に渋谷のハチ公前の風景があって、そこにいる人達に届かないと大衆運動にならないだろうと。集会後のデモもあえてパレードという形にしたのも参加する敷居を下げたかったからです」
 実行委員会では中心的に動いたミサオ氏だが、それまで社会運動に関わったことはなかった。18歳で上京し25歳の時にアメリカに移住した後はイギリス、イタリアを放浪する生活だったという。
「20代の頃は日本と海外を行ったり来たりで、自分のことで精一杯だった。私は子供の頃からこれだけ複雑になってしまった世の中はもう変わらないだろうと思っていて、自分はアウトサイダーとして生きるんだと思っていました。この社会の歯車には絶対嵌まりたくないと」
 日本の社会の歪みに対し絶望していたが故にあえてアウトサイダーの道を選んだミサオ氏だったが、日本に戻りイラストレーターとして働く傍ら、瞑想を通して霊的啓示を体験をしたことがきっかけで原発問題を考えるようになった。
「ある時、数千年前の日本の先祖たちの声が聞こえたんです。彼らがどれだけ一部の入植者から奪われ弾圧されてきたか。その延長線上に原発問題はあると気づいた。これは言っても分かりづらいと思うんですが、何千年という流れの中で見ると、六カ所再処理工場というのは最後の縄文潰しだなと。それがぱっと分かって、これはなんとかしなければと」
 

あいつらに殺されてたまるか!

 そして2011年、福島第一原発の爆発という最悪の事故が起こった。
「事故直後、私は一旦名古屋に待避したんです。状況がまだよくわからないのでしばらく様子をみようと。それは放射能が怖いとか死ぬのは嫌だというよりは『あいつら(原発推進者や理不尽な為政者たち)に殺されてたまるか!』という気持ちが強かったですね。私の行動原理はいつもそう(笑)。この先、広島か沖縄に移住するという選択肢も考えたのですが、ひとまず3月の末に一旦戻って来た。それで新横浜駅を降りた時、空気の中に微かに鉄の味がしたんです。『あ、これは放射能だな』と。その瞬間にふっと、私は原発を止めるためにこのまま関東にいるんだろうなと思いました。心の底には静かな怒りの感情も勿論あったんですが、その時はすごく冷静に『私はここで勝つまで闘おう』と淡々と思ったんですね」
 事故後、それまで社会が隠蔽していた原発の危険性が一気に明らかになったことで、多くの人達が危機感を持ち、脱原発デモなどが各地で開催されるようになった。
「3・11後は若い人達のデモがあちこちで始まったので、オールドスクール系の運動と新しい運動が一緒にできる枠が必要だなと考えていました。9月に大江健三郎さんが呼びかけて『さようなら原発1000万人アクション』という大きなデモがあったんですが、それだけだと新しい流れがそこに飲み込まれてしまうんじゃないかと。それでちょうど同じ時期に、首都圏の十数団体が集まって何か一緒にできないかと呼びかけて作ったのが首都圏反原発連合でした」
 反原連(ちなみに当ロフトプロジェクトも参加団体の1つ)は11年10月にアメリカの「反核連合」と連帯した集会とデモを行ったのを皮切りに、翌12年3月29日には首相官邸前での抗議を始めた。この抗議行動は初回3百人の参加だったが、当時の野田首相が大飯原発の再稼働を明言すると一気に参加者が膨れ上がり、多い時には20万人に達することもあった。それまで原発問題に関心のなかった党派も参加するようになり現場は混乱したが、反原連としては「再稼働反対」というシングルイシューを徹底し、原発に疑問を持つ人なら誰でも参加できる場を維持することに務めた。
「シングルイシューというのが明言化されたのは反原連からなのかもしれないけど、私が反原発運動を始めた頃はそれが普通でした。もちろん思想的には左よりの人がほとんどだったと思うけど、日の丸が来たら排除みたいな事はなかったですね。むしろ3・11後にそれまで関係のなかった極左的な団体が反原発運動に流れてきたことで、よりシングルイシューということの重要性が注目されたんじゃないかな」
「あと言えるのは、やはり原発は事故のリスクがあまりにも大きいので、他の問題に比べてより緊急性が高いと思います。単純な比較はできないけど、放射能というのは取り返しがつかないものなので、できるだけ早くなんとかしなければ」
 

官邸前抗議はボディブロー

 大飯原発の再稼働後は参加者も次第に減っていったが、官邸前抗議が毎週行われるというのはそれまでになかったことでもあり、〝原発をなくしたい〟という思いを直接示すという民主主義の重要な場として現在までずっと続けられている。(さらに言えば他のイシューでも何かあったら官邸前で抗議するというスタイルが完全に定着した)
「民主党政権の時はエネルギー基本計画で2030年代に原発ゼロにする方針を出したりとかなりいい所までいったんですが、また自民党政権になって昔の原発政策に巻き戻されてしまいました。事故も風化しているし、20万もの人が官邸前に押し寄せたモティベーションは怒りや悲しみで、それは長くは続かないと思うんです。人間って生きるための心的防衛としてそれを忘れるようにできているから。怒りというエモーショナルな動機に替わるのは「強い意志」なのですが、それを持つ人はそう多くはありません。だから今はデモや抗議だけで押していくのは難しい。ただ官邸前抗議を毎週続けていくことでボディブローになってる。その上で、もっと利口にあらゆる戦術を考えないといけない。物事が大きく動く時は天地人が揃う時で、天が動かない時は地と人を耕すしかない。地味だけど、あきらめずに闘い続けることじゃないですかね。勝ちに行くためには」
 
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(初出:月刊創2015年4月号)
 
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