知人の男性にこんなことを言われたことがあります。
「バイセクシャルが一番人を傷つけるのよ」
その男性はゲイで、まだパンセクシャル(※)が一般的でなかった頃、ボクはバイセクシャルと自分のことを説明していました。
「ゲイがノンケにフラれるのは仕方ないわ。住む世界が違うって分かってるもの。でも、バイセクシャルはダメ。なまじ男もイケるって思わせてるぶんタチが悪いわよ。結局みんな最後は女にいくんだから」
なるほど。たしかにそうかもしれません。選択肢が多いということは必ずしも自由に生きられるということではないでしょう。男性も女性も愛せるのなら、より社会的にマジョリティーな異性との恋愛や結婚を選択してしまうほうが楽だし、賢いのかもしれません。また、より多くの人を愛せることで、パートナーに通常の2倍以上の心配をさせてしまうこともあるでしょう。
完全な同性愛者や異性愛者の間で、こういった論調は少なくありません。同性愛者を無条件に嫌悪する人のことを「ホモフォビア」と呼びますが、こういった両性愛者を嫌悪する人々を「バイフォビア」と呼びます。バイセクシャルの辛いところは、一見男女両方と上手く恋愛ができるように見えて、実際のところはこのように同性愛者からも異性愛者からもあまり歓迎されないことが多いということです。
ボクの場合、正確に言うとパンセクシャルなので、さっきのゲイの方の理論からすればより多くの人を傷つける可能性があるぶん、両性愛者よりもタチが悪いということになってしまいますね。また「トランスフォビア」と呼ばれる異性装や性別越境者に対する嫌悪を覚える方たちもいるので、何重苦なんだと自分でツッコミを入れたくなってしまうほどです(笑)。
もしかすると、いまのセクシャルマイノリティーに対する理解を推進している世の中の風潮に、ある種逆行するような表現になってしまうかもしれませんが、どうもこの性に関する様々な《フォビア》を気にするというのは不健康な気がしてしまいます。考えてみれば、生きていく中で1人や2人、無条件に自分のことを嫌う人間が出てくるのは至極当然のことです。逆もあるでしょう。
たとえばこれが釣りや絵画などの趣味の話であるなら、それを誰かに否定されたとしても「まぁ、そういう人もいるよね」くらいで割り切りやすいもので、わざわざ食ってかかって自分の趣味を肯定させようなんてあまり思いませんよね。しかし、ことさら同性愛に限らず恋愛のこととなると、どうしてこうも人は必死になってしまうのでしょうか。
それはきっと自分の愛する人が自らの鏡だからなのではないかとボクは思うのです。心理学ではこれを「類似性の法則」といいます。ですが、なかなか現実にはそんな人がいないから、好きになった人に自分を合わせようとするんです。これは「同一化」と呼ばれています。
つまり、恋愛において好きな人を否定されることは、自分を否定されることに等しいからムキになるんです。好きな人や好きなものを類似性の法則でどんどん周りに置いていくと、次第にそれらが自分自身のようになって、好きじゃないものから避けていたのに、それができずに衝突し始めてしまう。
しかし、どうでしょう。そんなことに時間をかけるのは無意味だとは思いませんか。あなたを否定する1人の人間に固執するよりも、あなたを受け入れてくれる99人の人間に何ができるかを考えることのほうがよっぽど大切だとボクは思いますよ。
※パンセクシャル(全性愛)
性別(男女の二極化)にこだわらず、女装や男装など、いろいろな相手に恋愛感情を抱いたり、性的欲求を抱く人のこと。