前回に引き続き、「女であるということはどのようなことか」について考えていきましょう。
以前、とある女性からこんなことを言われました。
「大島さんみたいな人たちって女性より女性らしいですよね。私たち女性も見習わなくっちゃ」
はて? 女性より女性らしいとはどういうことでしょうか。
肉体的にも精神的にも女性である彼女たち以上に、《女性らしい》存在など果たして存するのでしょうか。おそらく彼女の言う「大島さんみたいな人たち」という言葉には、身体的に改造を施したニューハーフさんや、ボクのように見た目だけ女性っぽくした男性も含まれていることでしょう。
もう少し、彼女に寄り添った形で、行間を読むのであれば「女性でない分、女性として見られようと努力しているから、元々女性であると認識している自分たちよりも女性らしい」ということになるのでしょうか。だとすれば、そう考えること自体が、すでに《女性らしい》考えだなぁと僕は思うのです。
ああっ、めんどくさいと思わないで(笑)。純粋に興味があるんです。女性に。
前回、創作物の女体化には、先天性女体化と後天性女体化が存在すると書いたかと思います。そしてその違いを、男性が生まれ変わって女性になるのか、元々男性だった人物が女性になるのかだと説明しました。
普通に考えれば、現実に存在する女性は——前世の記憶でもない限り——生まれ持って女性です。そして生まれ落ちた瞬間から両親、親戚、友人など、周囲の環境は彼女らを女性として扱います。当然のように女物の服を身に付けさせ、当然のように乱暴な言葉遣いを禁止し、当然のようにピンクや赤色を好むものだと思い、当然のように男性との恋愛を期待します。——ああ、別に女性蔑視だとか、レズビアンを否定しているだとかいうわけではなく、世間がそうなっているという話です。
もちろんそれに反発する女性も出てくるでしょう。女の子だけどズボンを穿きたいとか、男の目を気にしてメイクなんかしたくないとか、男になってみたいとか。ボクが思うに、それこそが《女性らしい》のではないでしょうか。男性として生まれ、男性として育ってきた人が「男性になってみたい」なんて思うはずはありませんからね。
あるニューハーフさんがいつも“お姉さん座り”をするので、たまには足を崩したらと促したことがありました。すると彼女は、
「女の子だから……」
と苦笑して頑なに姿勢を崩すことはなかったのですが、当時女の子と付き合っていたボクからすると、「別に女の子でも胡坐とかかくのにな」と違和感を感じたものです。そんな過剰な女性性の演出が、むしろ逆に彼女が女性でないことを物語っているように思えてなりませんでした。
また、本当に周囲の環境によって人間の性別が決まるのだろうかといった疑問もあります。ジョン・コラピントのノンフィクション『ブレンダと呼ばれた少年』に登場するブレンダは、物心つく前から女の子として育てられましたが、次第に周囲が自分を女性扱いすることに違和感を覚え、自ら自分は男なのではないかと気付きます。我々はこのブレンダ少年のように、生まれ持った本質から逃れられないのではないでしょうか。
人格を表すパーソナリティーという言葉は、演劇などで使用する仮面を意味するペルソナが語源になっているそうです。考えてみれば、我々は様々な仮面を付けて生活しています。男性、女性に限らず、子どもの時は子どもらしく、医者は医者のように、初老の紳士は初老の紳士が如く振る舞い、その役を全うします。自分は“らしくないタイプ”だと考えている人さえ、本人も気付かぬうちに《らしくないという仮面》を被せられているのです。
ボクが思うに“らしさ”なんてものは、実のところ存在していないのではないでしょうか。冒頭の話に戻るのであれば、それは《概念としての女性らしさ》であって、本来意味するところの女性ではないのです。《概念としての女性》が本来の《女性》と異なる限り、《女性らしい女性》という言葉自体が破たんしていることになります。
人間はいつも舞台役者が演じるようなファジーでオーバーな“らしさ”を求めています。そしてその仮面はいつしかボクらの顔に張り付き、本来の姿を覆い隠してしまうのです。《らしいか、らしくないか》ではなく、何が本当の自分なのか、何がその人の本質なのかを見失わずに生きていたいですね。