人の美醜は常に世界中の人々の関心である。
「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界の歴史は変わっていただろう」なんて言われるほどに、美醜はいつも人々を狂わせる。
私自身、一応人前に立たせていただいている職業なので、ステージに立つ時には精一杯身なりに気をつけているつもりだ。
美醜の在り方について一日の時間の中でも結構な割合で考えたり、気を使ったりしている。
その中で導き出した一つの答えは「ルックスは好み」だということ。
私の容姿がたまらなく好きだという人もいれば、生理的嫌悪を覚える人もいるだろう。ということで自分の周りにいる人は少なからず自分の容姿に関して悪くは思っていないからお付き合いができるんだろうなという考え方である。しかしながらこの考えは、美醜について自分自身がどうしようもなく自信がなくなったり、もっとここがこうなら、と思い悩んで眠れないような夜に最終的に心の中で言い聞かせるワードでもある。
近年では美は生まれ持ったものではなく、ある程度作り出すことができるようになった。
「かわいいは作れる」のように、時間とお金をかければある程度自分の手でも化粧等によって作れるし、もっと大々的に変えたいのならば整形手術だって可能だ。かわいい、というか美しさは作れると確かに思っている。それと同時に、美しさは作らないと生まれないと思っている。
生まれ持って美しいという概念が成立するのはそれこそ生まれたての赤ちゃんとか、幼児やティーンエイジャーなど「若さ」でしかあり得ない美を持つ人にだけ言える言葉だと思う。何もしなくても美しい肌や髪は、若くないと維持できない。年齢とともにだんだん質が変わってくるのは当然のことで、何もしなかったら元が美しい人でも美しくない人になってしまうのが時の流れだ。
美というものは、努力と継続によって成立するものだと思っている。諦めたら、休んでしまったらそこで敗者になるしかない。努力だ。美しくなるためには毎日の積み重ねでしかない。野宮真貴さんも著書『赤い口紅があればいい』で、年齢を重ねれば天然美人と雰囲気美人の立場が逆転するというような旨を書かれている。
美しくないと思っている人ほど美に対して貪欲です。すべての人が美に対して常に貪欲であれと言っているわけではないのだけど、先ほど述べた「ルックスは好み」に最終的に行き着いてしまうなら、自分が自分のことを大好きでいられるように美しくありたいと努力することが大事だと思うのです。考えてみてください。生まれてきて死ぬまで自分の一番の味方は自分自身でしかないのです。誰がこんなどうしようもない自分に根気良く付き合ってくれますか。だったら自分のことをずっと愛せるように自分磨きはしなくてはならないのです。生まれ持った美貌を最大限生かすように化粧のテクニックを身につけるのもよいし、医学の力によって美しく生まれ変わるのもよいと思っています。でも、人は欲望の塊なので、一度外部から手を加えてしまうと「もっともっと」と際限なく求めてしまい、当初思い描いていた美の概念から遠く離れてしまう恐れもあるので程々に、と思います。
毎日考えます。目が覚めたら絶世の美女になっていますように、と。でも鏡を何度見ても自分しか映ってないってことも知っています。自分のことは一番自分がよく知っているのなら、自分が美しく見えるように日々研究や努力を怠らないことが美への近道です。美醜にかかわらず、すべての成功や勝利は努力の上で成り立っています。可愛いスイーツは、見た目に反して毒でしかなく、食べれば食べるほどに醜くなってしまいます。
この砂糖菓子を食べるほどに可愛くなればいいのにと何度思ったことでしょう。でも美しくなるためにはSNS映えするスイーツを食べることではない。SNS映えには程遠い我慢や忍耐が必要。キレイになりたかったらお菓子やケーキを食べるな。というか、キレイになりたいんだったらメシ喰うな!