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ほんと、どうもね。 2014.01.14

bdk_2.jpg怒髪天の武道館公演に関してはすでにたくさんの界隈の方々やバンドマン、関係者の皆さんが溢れんばかりの愛情で語り尽くしているので(もちろんライブは掛け値なしに素晴らしかった)、ここで改めて自分が言いたいことは特にない。特にないけど、ひとつだけ。

開演前に、ウチの家族からチチカカのでっかいビニール袋を渡されたんです。これをぼくに渡してくれって言われた、と。
中を見たら、札幌時代のブッチャーズのフライヤーがごっそりとあった。

聞けば、吉村さんと所縁が深すぎるにも程がある、とある方から譲り受けたと。
ぼくは会えなかったけど、家族は場内で会えたらしい。
その方は怒髪天のメンバーとも古い付き合いの札幌時代の仲間で、武道館に参戦するタイミングで貴重な品をぼくに渡そうと思っていてくれた。

しかも、フライヤーが折れないように、はるばる札幌から大事に、大事に、持ってきてくれたのが、よーく分かった。
ヨレて黄ばんだその一枚一枚を手にしたらそれがじんわりと伝わってきて、ライブが始まる前からなんだかグッときてしまったのでした。

その方のことは昔から話だけよく聞いていたのだが、初めてお会いしたのは去年の夏、札幌で(吉村秀樹を伝説になんてしないぞの会があったのです)。先方もぼくのことは射守矢さん経由で知っていたらしい。

当時の思い出がいっぱい詰まっているのであろうフライヤー。
そんな大切なものを、当時を知らぬぼくごときの人間が受け取ってしまっていいものなのだろうか。
それを手放そうと思った時、その方はどんな気持ちだったのだろうか。
そんなことを武道館翌日の昨日、ずっと考えていた。

そして、これもまたひとつ怒髪天が結んでくれた縁なんだなー、と、しみじみ思った。

ぼくが怒髪天と関わりを持ったのは、'99年の再始動後です。
まだ増子さんが幡ヶ谷の雑貨屋で店長をやっていた頃。
当時、その店の近くにイースタンユースとファウルが所属していた坂本商店という事務所があって、そこの代表だった長森さんを慕って入り浸っていたぼくは、イースタンユースとの関わりの後に怒髪天の存在を知った。
長森さんは札幌のUKエジソンというレコード屋で働いていて、地元のテレビやラジオにも出るような有名人だった。
その長森さんは、増子さんと一緒に黒天狗レーベルを興す仲で、後年、『如月ニーチェ』にも確か“チェアマン”としてクレジットされていたと思う。

『極東最前線』に入ってた「サムライブルー」と、そのレコ発のクアトロ3days最終日に怒髪天のパフォーマンスを見て度肝を抜かれ、不器用だけど真っ正直な歌に惚れ込んだ。
音楽性は違うけど、イースタンユースの歌心と相通ずる部分を勝手に感じて、ぼくは怒髪天の音楽にのめり込んだ。

最初に増子さんと仕事で会ったのは札幌。
実家でご両親に会ったり、すすきのの縁の地を訪ねて歩いた。
それ以来、公私ともに親しくさせてもらって、増子さんに限らず怒髪天のメンバーと関わりを持つことで自分の知り得る世界と人脈がパーッと開けた。
札幌時代からの友人、バンドマン、その周囲にいた人たち。
東京のレーベルやレコード会社の人、イベンターといった仕事上の付き合いの人はもちろん、落語の世界やヘアメイクといった異業種の方、呑み屋の大将みたいな人たちに至るまで。なかには「こいつ、バカで面白いからロフトでバイトとして働けない?」と、増子さんが講師をしていた専門学校の生徒を紹介されたこともある(笑)。彼はのちにネイキッドロフトの店長になり、今は地元である沖縄でアウトプットという店をやっている。

後に吉村さんとプライベートで会うようになったのも、増子さんの存在が多分に関係していたように思う。「ああ、あいつは増子と仲いいヤツだ」みたいな下地があったのは大きいんじゃないかなぁ。

bdk.jpg怒髪天みたいなバンドがもっともっと世の中で評価されなきゃ到底浮かばれない、どうしてこんなにいいバンドがいるのにどのメディアも真っ当に扱わないんだろう? とルーフトップで躍起になって誌面を割いてきた身としては、ライブの動員が右肩上がりになってきた何年も前からいつかは必ず武道館でやれるだろうと生意気にも思ってました。

そして迎えた当日。受付から場内に至るまで、どこを歩いても知り合いばかりの武道館。
みんな怒髪天を介して顔見知りになった人たち。
そんな人たちとあの空間を共有して、結成30周年を祝福できた幸せ。
あれだけの広い会場だから会いたい人たちにさっぱり会えずということもあったけど、会う人会う人に挨拶して握手できて、それだけでもう感無量だった。
怒髪天と出会うことがなければ、あんなにライブハウスの匂いがするロックの殿堂は味わえなかったし、あんなに重みのある武道館は初めてだった。
だからやっぱり、ここでも怒髪天に感謝なのです。

もし怒髪天と出会えていなかったら、自分の人生はさぞ味気なく薄っぺらいものになっていたと思う。
ここ数年は昔ほど密な間柄ではなくなったけど、それでも怒髪天は節目節目に大切なメッセージをくれるし。

武道館で授かったメッセージは、何かを成し遂げるために時期が遅すぎるなんてことはないってこと。
そのためには、絶対に死んじゃいけないってこと。
あの日増子さんが「オレよりも先に死ぬな」と何度もMCで言っていたのは、言うまでもなく去年の吉村さんのこともあるでしょう。
余談になるけど、あの吉村秀樹会の時にもらった、「よーちゃんの話を聞いて、射守矢と吉野と椎名くんのことがずっと心配だったんだよ」「オレの友達を泣かせるようなヤツは絶対に許せない」という増子さんの言葉をぼくは一生忘れない。あの言葉のお陰でどれだけ助かったことか。

生きてさえいれば、愚直にひとつのことに打ち込み続けていれば、武道館という夢の大舞台に立てる。それを怒髪天は身をもって提示してくれた。
ぼくらみたいな表舞台に立つ人間じゃなくても、どんな仕事に携わる人でも、武道館と似たような夢や目標があるはず。
それに向けて挑戦するのに年齢は関係ない。増子さんがもう一度怒髪天を始めたのは33歳の時だし、そこから14年かけて武道館まで登り詰めた。夢があるじゃないですか。そもそも夢なんて言葉、どこかこそばゆくて好きじゃなかったけど、怒髪天のお陰で好きになった気がする。

だからこの間の武道館のライブを見て、またいいタイミングで増子さんたちにケツを叩かれたような気分になった。
オマエはオマエで地に足を着けてしっかりやれよ!と言われたような気がした。

そんなことをつれづれに考えていたところへ、ライブ中盤で「流れる雲のように」「あえて荒野をゆく君へ」「サムライブルー」という自分にとって一番ストライクゾーンの曲を畳み掛けられたものだから、もう涙が止まらんかったですわ。
トドメはまさかの「友として」。反則にも程がある。泣き疲れなんてしたの、ホントに久々でした。

「ほんと、どうもね。」という言葉、そのまま怒髪天にお返ししたい。
いろんな偶然と出会いが重なって彼らと出会えてホントに幸運だった。
その幸運と縁を、まだ怒髪天を知らない誰かに向けてバトンを手渡すように伝えていきたい。誌面であれイベントであれ、自分ができることはまだあるはずだと思うので。
そうやって恩返ししないことには、今まで授かってきたものがあまりに多すぎるから。
その意味でも、今回の武道館はひとつの大きな頂きであり通過点。
北の大地から飛び出してきた放吟者たちの旅はまだまだ続く。
その旅の行方を見届けること。それだってしっかり生きる理由になるとぼくは思うのだ。

プロフィール

椎名宗之(しいな むねゆき):音楽系出版社勤務を経て2002年1月に有限会社ルーフトップへ入社、『Rooftop』編集部に配属。現在は同誌編集局長/LOFT BOOKS編集。本業以外にトークライブの司会や売文稼業もこなす、前田吟似の水瓶座・AB型。

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