Rooftop ルーフトップ

BURAI

編集無頼帖

合縁奇縁

2013.09.04

20130831.jpg夏季休暇を利用して、北海道へ。
「吉村秀樹を伝説にしないぞの会」札幌支部の会合があったのです。
吉村さん含有率の高い地元の濃ゆい人たちと一緒に、吉村さんを肴にダラダラ話すというとても楽しい時間なのでした。

ロビンソン(って今は言わないんだよね)の隣のビルにある串鳥番外地で延々5、6時間。あっちゅうま。だって話が尽きないんだもん。
ReguReguの小磯さんを始め、札幌時代から吉村さんとディープに関わった人たちの記憶と、この10年以上東京で公私ともに世話になったぼくの記憶が合わされば、そこにニョキっと吉村さんの姿が浮かび上がる。

あれ? なんでここに本人がいないんだろう?
まぁ、本人がいると話しづらいことばっかでメンドーだしなー。ハハハ。
そんな感じで終始笑いの絶えない会合なのであった。

その翌日、親族のご厚意で留萌のご実家へ立ち寄ることができた。
いつだったか、ライジングサンの帰りに足を延ばして以来の留萌(ちなみにそのとき、上原子建設の前をウロウロしていたら友康さんのお父さんにバッタリ会った)。
ひさや食堂にも黄金岬にも目をくれず、行き着いた昭和然としたアパート。
突然押しかけた珍客にも至極丁寧に応対して下さったお母さんはとても元気だったのだが、仏壇を見るとどうにも涙が止まらなくて、まともに話をすることができなかった。

でも、いろんな話が聞けた。
子どもの頃、学習塾で吉村さんがひとりだけ数学の難問に答えることができて、先生から1,000円をもらったという話。その1,000円で友達にお菓子を買ってあげたという如何にも“らしいな”という話。

「バイトで100万貯めたから東京へ行く」とお母さんに伝えたという話。
そのバイト先というのが、妻の義兄がやってた石屋だったという偶然。
数日前、義兄から聞いた「吉村はホントにスジが良くて、あのまま職人にもなれたよ」という言葉をお母さんに伝えた。

お母さんが杉並の家から持ってきたアコギや帽子、メガネ、LP、青いマーチンなんかをぼんやり見ながらお母さんの話を聞いて、きっとやんちゃだったんだろう幼き日の吉村少年に思いを馳せた。

今では珍しい、モノクロの手札写真にわんぱく坊主を絵に描いたような吉村さんが写っていた。
木のソリに乗って「ぬり絵ときり絵」という本を読んでいる。
このわんぱく少年に、数十年後尋常ならざる影響を公私ともに受けるのだから、人生なにが起こるかわからない。

なにが起こるかわからないと言えば、吉村さんが急にいなくなったからこそこうして留萌の家まで押しかけたわけで、お母さんに会うことなどまずなかったわけで、まったくなにが起こるかわからない。

アンチ予定調和で、いつもなにが起こるかわからないことを進んでやりたがっていた吉村さんらしいイタズラなのか、これは?
まぁいずれにせよ、ようやく手を合わせることができたし、拙文が載ったルーフトップを渡すこともできたのでヨシとしよう。

またの機会があれば、今度はジメジメしないでカラッと笑える話をお母さんとしたい。
そのときに、自分がいかに息子さんから影響を受けたか、息子さんがどれだけ自分に感動をくれたかを暑苦しくも話そう。

そうやってみんなで語らう限り、吉村さんはそこにいるんだから。

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PROFILEプロフィール

椎名宗之(しいな むねゆき):音楽系出版社勤務を経て2002年1月に有限会社ルーフトップへ入社、『Rooftop』編集部に配属。現在は同誌編集局長/LOFT BOOKS編集。本業以外にトークライブの司会や売文稼業もこなす、前田吟似の水瓶座・AB型。

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